鄙乃里

地域から見た日本古代史

6.道後温泉 ~二つの誕生説話~

  6.道後温泉 ~二つの誕生説話~

 現在の道後温泉の誕生説話には二通りがあり、先述の『伊豫国風土記』の少彦名命の伝説と、[白鷺飛来説」の二話が伝えられている。

 [白鷺飛来説」のほうは、こうである。

昔、足に傷を負い苦しんでいた一羽の白鷺が岩間から噴出する温泉を見つけ、毎日飛んできてその中に足を浸していたところ、傷は完全に癒えてしまい、元気に飛び去った。 (「道後物語」)

 そこを探してみると温泉が見つかった。それが現在の道後温泉近くの鷺谷と呼ばれる場所だというのである。

 しかし、同じ温泉に誕生説話が2種類も存在するのは、どう考えてもおかしい。
 これについては、おそらく「白鷺飛来説」のほうが道後温泉の本来の誕生譚であろうと思う。というのは、白鷺は古代から中世において道後温泉の開発に深く関わってきた越智氏・河野氏神鳥であるからだ。

 いくつか例を挙げてみると、これは聖徳太子の時代になるが、小市益躬(おちますみ)公が播磨で鉄人を退治して木下濱宮(今治市鳥生)に帰り、木の枝に鏡を掛けて大山積神を祀ったところ、その木にが巣を懸けたので「鳥生(とりゅう)」の地名ができたとの伝承が今治にある。

 また、弘安の役(1281)において河野通有(こうのみちあり)が博多湾の敵船に乗り込み敵将を捕らえたときにも、どこからともなく三島の神の使いのが現れて、敵将の船を教えたという。
 
 その白鷺が道後温泉誕生説話に深く関わっているのである。つまり、道後温泉の開発は越智姓河野氏の歴史の始まりと機を一にしており、河野氏の歴史そのものであり、それ故、河野氏道後温泉の側らに湯築城(ゆづきじょう)を築いたのではないかと考えられる。現在も、道後温泉本館の刻太鼓(ときだいこ)のある振鷺閣(しんろかく)の屋根には、道後温泉の象徴である白鷺が翼を広げている。

 そうすると、もう一方の『伊豫国風土記』の少彦名命の説話のほうはどうなるかといえば、実は、これこそが道後温泉よりも歴史が古いとされる熟田津石湯の伝説だった可能性が大きいと考えられよう。もしそうであれば、熟田津石湯こそが真の古代「伊豫の湯」であったといえる。そして、その伝説が湯の郡の地名説話として『伊豫国風土記』の中に取り込まれているのではないだろうか。

 

 

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(つづく)