鄙乃里

地域から見た日本古代史

5.道後温泉は、熟田津石湯?

 5.道後温泉は、熟田津石湯?

 松山では「道後温泉は昔は熟田津石湯(にきたつのいわゆ)と称した」ともいっている。それでは熟田津石湯の意味は何か。それがいつ、なぜ道後温泉に名称変更されたのか。その両者の具体的な関係はどうなっているのかなど、その肝心な部分を説明しないといけないはずだが、そんな説明はこれまで聞いたことがない。ただ単に「道後温泉は熟田津石湯」と言っているだけのことである。この松山説によると、熟田津石湯がそのまま道後温泉に移行したかのように理解されるが、そのような証拠はどこにもないのである。

 

 そもそも「熟田津」とは、斉明天皇の西征記事や万葉歌に登場する伊予の地名である。一方で「道後」の名は古代の南海道に由来するもので、今治にあった国府を「道中」とし、大和から見て国府より近くを道前と呼び、遠くを道後と呼んだのである。そして、その道後地方の湯之町に存在する温泉が、伊予の代表的な温泉であったが故に、現在は道後温泉と呼ばれているのである。しかし、現在いくら有名な温泉だからといっても、それだけで、熟田津石湯と道後温泉が一つに結びつけられる理由にはならない。


 この松山説の意味するところは単純であり、古代の伊豫の湯を道後温泉と勘違いしているところから、斉明天皇の西征記事による熟田津石湯を道後温泉に同定しているだけではないのだろうか。熟田津石湯が道後温泉の旧称だという説には、それ以外に何も根拠がないように思われる。第一、それについて説明できる人もいないのだから。

 

 

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(つづく)