鄙乃里

地域から見た日本古代史

24.熟田津石湯の地は?(13)~島山のこと1~

24.熟田津石湯の地は?(13)~島山のこと1~

 最後に、以前に話した「島山」の件について触れておきたい。
  山部赤人の万葉歌(巻三322)に、  

皇神祖の   神の命の   敷います   國のことごと   湯はしも   多にあれども   島山の 宜しき國と   こごしかも   伊豫の高嶺の   射狭庭の   岡に立たして ……

とある「島山」は、実際は島と山ではなく「島山」で一つの言葉ではないかと指摘しておいた。それは、島と山を褒めておいて、また「伊豫の高嶺」が出てくるのは、山が重複して不自然であるから、赤人がこのようなまずい言葉の置き方をするはずがないと考えたからである。
 そうすると、それに続く「宜しき」も、たんに「よい」とか「美しい」とかだけではなく、「名勝として知られている」という意味が含まれているのではないか。つまり、伊豫の名勝「島山」を詠っているのではないかと解釈されるのである。

 伊豫国にも地誌等には名所・旧跡が多く伝えられていて、「島山」の名勝地はほかにもあるかもしれないが、西条でも「ゆるぎの橋」や「島山」は有名である。

  伊予の国新居の郡にきヽわたるゆるぎの橋は幾夜かくらん  (冷泉等覚)

 「ゆるぎの橋」の旧跡は西条市福武(ふくたけ)にあるが、「島山」はおそらく同市飯岡(いいおか)や玉津(たまつ)方面にある小丘陵地を呼んだものではないかと考えられる。

 『和名類聚抄』には、新居郡(にいのこおり)6郷の一つに「島山郷」が見え、「島山」は郷名にまでなっている。江戸時代には西條領が下島山村、小松領が上島山村と別れてある。天保年間の『西條誌』には次のように書かれている。

   「下島山村」(新居郡・島山郷・大町組)
 村名之事、島とは、海中にある山を云也、當村は、海邊の舩屋村に隣り、海近ければ、徃古は潮のぼり、山皆な海中の島の如く見ヘしより、此村名を得たるなるべし と云ものあり、地形を来り観れば、其謂あるに似たり、いつの頃よりか、村を上下に分ち、上島山村、下島山村あり、上島山村は、小松領に属す、(上島山村の上の山に、大濱と称ふる処あり、昔は此の山下まで、潮来りしに因て、大濱の名を得たるなる べしと云、島山の名義も、推して察すべし)

                       (『西條誌』稿本)

とあり、新居郡では「島山」は古代から郷名にされているほどの「名勝地」であったことが察せられる。

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(つづく)