鄙乃里

地域から見た日本古代史

18.熟田津石湯の地は?(7)~神像の年代について~

18.熟田津石湯の地は?(7)~神像の年代について~

 そのほかにも、写真で見る公卿神像が「そんなに古いようにも見えない」との(墨書に対するらしい)否定的な:言辞もあった。それはそれで、見る人の判断だから仕方がない。その人なりの率直な感想だとしたら、理解できなくはない。

 しかし、それには少し理由がある。それは現在の公卿神像のほとんどは、天文年間(1532~1555)制作の木像であるからだ。
 神社の由緒によると、天文年間に熟田津の中州が市内の加茂川の洪水と海からの高潮により水没し、本社以外の神像(公卿神像)が流失してしまったという。『伊豫温故録』は、それを天文2年(1533)の高潮と地震により…と書いているが、地震については、はっきりはしない。そのため当時の高外木(たかとぎ)城主の石川氏が、新しい神殿を洲之内の檜箸山(ひばしやま)山麓現在地に再建したことから、旧宮に対してこちらの宮を「新宮(しんぐう)」と呼んだのが、そのまま現在の社号になったものらしい。
 その際に、公卿神像も再彫されたことが『西條誌』にも記されている。その時は全部で32体あったが、それらの神像も後に末社の門の失火で一部が焼けて、現在は24体のみ残っているとのことである。

 ところが、その失火がかえって幸いした。神社では残りの公卿神像を置き場がなくて山中の仮小屋に一時的に保管しておいたところ、この間に天正の陣が勃発した。そのため偶然にも神像の焼損を免れたというのである。

 ただし、現存する24体のうちの1体は、元禄2年(1689)3月7日になって、故宮跡の田の中から農夫が偶然発見したものであり、天文年間よりも以前の旧い立像で、その中に「熟田津村橘…」等の墨書があったようである。そのころの橘新宮神社旧跡は干拓により、すでに西田の水田になっていたのである。神像が水に浸かっていなければ、もっと読める文字があったのかもしれないが、150年間も水中や田んぼの中でよく残っていたものだと思う。

 その旧い立像以外は男女の座像が多く、すべて天文年間の制作ではないかと察せられるが、それでも真鍋氏の撮影当時で400年以上を経過しているため、剥がれたり、割れたり、朽ちたり、虫食いがあったりして、それなりに古いものである。中でも昔の旧い立像1体は、ほかの像と趣を異にしており、表情が単純な分、異形で時代性を感じさせる。

 『旧故口伝略記』には、最初の神像は神社創建当初からの神像のように書かれていて、神社の創建に関しては『愛媛県神社誌』に天智4年文武2年の棟札の焼け残りや写しが残っていたと伝えている。それでは神社の創建が天智4年と考えられるが、この公卿神像1体が必ずしも当初の物かは分からず、公卿神像の墨書の内容だけから考えると、早くても奈良時代末期、平安時代以降に書かれたものではないかという感じもする。

 木像内部にはよく見ると梵字で光明真言が書かれてあり、梵字などは社僧が書いたものではないだろうか。また「正見敬白」の文字もあって、「正見」は仏教用語だが、この場合は書いた人の僧名のような気がする。しかし、神像は途中で修復される可能性もあるだろうし、墨書は複数の人が書いているらしく、現物を見ていないので年代等、軽々しくはいえない。
 実物を見られた真鍋氏は、ほかにも「熟田津」の文字がもう1個所と、阿弥陀経や心経も書かれていたと自著に記している。

 それで思い出したのであるが、天正の陣以後の神職には口伝(くでん)しか情報がない上、1600年頃に熟田村が絶えたため、後世の神職には熟田津の「熟」の字がよく分からなくなってしまったらしい。『旧故口伝略記』の転写に誤りがなければ、古来の伝承部分に「熟田津村」が1箇所と、「饒立里(にぎたつのさと)」が1箇所ある以外は、すべて「ニギタ、ニギ田、ニギタヅ、ニギ田津」と「熟」はカタカナ表記されている。これが一柳(ひとつやなぎ)西條藩の改易後に誤って「ニギタ」が「西田」と上申される一因にもなっている。

 したがって、その意味でも、江戸時代の神職には、神像内へ「熟田津村…」と漢字表記できるほどの文字に関する絶対的な確信はなかったと思われるのである。また、神像の中身も見ていないことが分かるだろう。

 

 

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(つづく)