鄙乃里

地域から見た日本古代史

17.熟田津石湯の地は?(6)~『旧故口伝略記』の話~

 17.熟田津石湯の地は?(6)~『旧故口伝略記』の話~

 橘新宮神社には神像のほかにも『旧故口伝略記』(きゅうこくでんりゃっき)という文書があり、真鍋充親著『伊予の高嶺』に採録されている。ただ原文通りというわけではなく、内容はそのままに、表記を少し読みやすくしたもののようである。

 神社には、もともと昔から伝わる古記があったらしいが、天正の陣(1585年7月、羽柴秀吉の四国攻め)で古記・宝物類が灰燼にされたため、その内容を記憶していた宮司家の祖父が、神明の前で孫に語り継いだのが口伝の始まりだという。時はまだ戦国時代、文書にすれば再び焼失して永久に忘却されることを危惧されたものか。これ以後は、それにならって嫡子が15歳になる年の初めの夜に、先祖からの口伝を、神前で昔のそのままに語り継いできたとある。

 その内容のあらましを、江戸時代の享保年間(12年)に必要があって文書化されたものが、現在の『旧故口伝略記』に当たるようである。

先祖どもの口伝の通り神々の御霊形に依り、又その号に依り、又往古の旧跡に依りて、そのことを口伝仕り候。故にこれに依り即ち写し仕り候也。

                真鍋充親著『伊予の高嶺』より

と、その末尾に書かれている。

 某書では、この時期あたりに神主が神像に造作した可能性も想定し得ることを、ことさら取り上げていたようにも思えるが、上記のような宮司家の神妙で厳格なしきたりや、当時の神職の先祖を敬う実直な姿勢から考えても、とうていあり得るものではない。第一、そんなことをすれば、古代から連綿と記録を引き継いできた御先祖様に対して申し訳が立たないのではあるまいか。

 また宮司家は大切な後継者や社人を戦国時代の合戦で失いながらも、その孫につないで、かろうじて神明を保ってきたようである。そうした苦労を考えただけでも、後世の宮司が勝手な造作など出来る話ではないだろう。『旧故口伝略記』の内容を読むと、そのことが伝わってくる。

f:id:verdawings:20191210174331j:plain

 この『旧故口伝略記』の原文である宮司家の手書き文書は、一部が松平西條藩に提出されたもので、今は神社や社家に遺存しないかもしれない。しかし、その「写し」が他の神社(市内の高鴨神社)に残されていて、それを読んだ真鍋氏が「内容の貴重さに」驚き、調査のきっかけになったように書かれていたと記憶している。

 この記事中の『旧故口伝略記』の内容は、すべて真鍋氏の『伊予の高嶺』によるものである。

 

 

f:id:verdawings:20191209215636j:plain

(つづく)