鄙乃里

地域から見た日本古代史

19.熟田津石湯の地は?(8)~石湯八幡と橘の木~

 19.熟田津石湯の地は?(8)~石湯八幡と橘の木~

 西条市西田の東の地続きに安知生(あんじゅう)という土地がある。橘新宮神社の旧跡は最近まで西田の畑地だったが、何年か前に区画整理されたため、現在の地図では安知生新開に入っているようである。

 新開や新田というのはみな江戸時代以降に干拓された臨海部の畑地で、その中には昔は陸地だった個所もある。この西田新開や安知生新開などが正にそういう土地で、古代から戦国時代の初めまでは、そこに熟田津があった場所である。

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 その熟田津の橘新宮神社旧跡から500メートルぐらい東に寄ったところに、石湯八幡宮(いわゆはちまんぐう)の旧跡がある。『旧故口伝略記』によると、安知生の石湯八幡宮は、神功皇后の行宮跡に建てられたものだという。そして、この二つの神社に石湯行宮(いわゆかりみや)の伝承が残っている。

 もう一つは、西田の北東の古川(ふるかわ)というところに、天智天皇を祀る御所神社旧跡もある。これも現在は移転しているが、つい近年までそこに小さな森と神社があった。やはり熟田津に関わりある神社だと、由緒が伝えている。

 ところで熟田津の意味には二通りの解釈が考えられるように思う。一つは「よく稲が実る水田の側らにある船着き」の意味だという。もう一つは「波穏やかな水田の側にある船着き」の意味になる。「熟」は「柔」に通じるからである。
 また冬鳥の「鶴(たず)」は昔は「田津」とも書いたが、それは水田や河口(海際)の湿地帯によく集まる鳥(田津鳥)だからだろう。熟田津の「田津」はそういう地形を表しているとも考えられる。

 これに関しては『旧故口伝略記』に次のように書かれている。

神功皇后此里のさまを見給ひて、水田の熟れて、稲の生地(できる)なりと宣ひ、是により熟田津村と申すなり。

                  真鍋充親著『伊豫の高嶺』より  

 『旧故口伝略記』の話が正しければ、熟田(じゅくでん)のことになり、最初のほうの意味になるようだ。もちろん、神功皇后が名付けたというのは、どこまでも口伝書の伝承上であるけれども。その意味では熟田津の名称には普遍性があり、ほかの地域に熟田津があっても不思議とはいえない。ただ少なくとも、斉明天皇の熟田津に限って言えば、かつて伊予国に実在した「熟田津(村)」という、れっきとした固有地名なのである。

 その神功皇后の行宮跡だと伝える石湯八幡宮の前あたりに、『旧故口伝略記』によると武内宿禰新羅から持ち帰った実から生じた橘(たちばな)の木が当時立っていたそうで、橘天王がこの里を「橘の花かほる里なり」と宣言されたので、熟田津村を橘の里ともいい、また、橘天王と号し奉るとある。その当時の橘の木は後世になって枯れたが、その実生が7本あり、そのうちの1本は天文年間の洪水で流されるまでそこに立っていたという。

 『万葉集』の「熟田津の歌」の註釈(山上憶良の『類従花梨』)に、

御船伊豫の熟田津の石湯の行宮に泊てつ。天皇、昔日よりなほ存れる物を御覧(みそなは)して當時(そのかみ)忽ち(たちまち)に感愛の情を起したまひき。
                                                 (角川文庫『万葉集』上)

がある。

 『伊豫国風土記逸文斉明天皇御歌「みきたづに泊てて見れば…云々」についても、このときのことではないかと想像される。「昔日よりなほ存れる物」とは、かつて舒明天皇が鵤(いかるが)と此米鳥(しめどり)を養う為に稲穂を掛けた椋(むく)や臣木(おみのき)、あるいは行宮跡のことともいわれるが、もしかしたら、この橘の木ではなかったのだろうかと自分は思う。『類従花梨』によると、斉明天皇(財姫皇后)は昔日にも舒明天皇と伊豫の湯を2度訪れていたようである。

     * 図は熟田津の地図 

 

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(つづく)