鄙乃里

地域から見た日本古代史

16.熟田津石湯の地は?(5)神像と墨書

 16.熟田津石湯の地は?(5)神像と墨書

 少し余談になるが、ある本に、この公卿神像の墨書について「もしこの文字が、盲信した神主により加筆されたものだとしたら、信じた場合には大変なことになる」という意味のことが書かれていた。これを読んで驚いた。世間には、ここまで疑う人もいるのだ…と。

 たしかに、その人の言うとおりだろう。なるほど理屈としてはそうなのだが…、しかしながら、それが実際に起こりうる可能性からいえば、この批判は完全に不合理といえよう。しかもこの場合は、論や説の正当性・史料や伝承の信頼性等に対する学問的な疑義や批判というだけでなく、神職良心の問題にも関わっているのである。

 

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 そこで当時の神職の名誉のためにも書いておきたいが、神主たるものが、自分の奉祭する神社の神像を解体してまで、そんな妄言を書き加える人が、はたしているだろうか? 
 これらの文字は神像の外縁に書かれているのではない。神像の胴体は丸木の一木彫りではなく、内刳り(うちぐり)のある前後2面の組み合わせ式になっているようで、その内部の空洞部分に墨で書かれているのである。

 また神像は神社にとっては宝物かもしれないが、部外者にとっての関心事とは必ずしもいえない。宝器庫に何百年も納められているだけで本来、他人に見せることを前提に保管などされていないのである。 
 おそらく真鍋氏らが調査されるまでは、体内の文字どころか、神像自体ですら、一般の目に触れる機会は少なかったのではあるまいか。

 

 簡略に言えば、それは真鍋氏自身の信望と、献身と、一途な情熱に神社が感応した結果によるもので、昭和40年頃という時代の良さもあっただろうが、その写真が見られるだけでも真鍋氏の功績は多大にして貴重と言えよう。現在では、いくら研究熱心といっても、一般人にとって解体など許されるはずもないのだから。「木像を見せてほしい」と頼んだだけでも、「御神像を見せるなど、とんでもない」と、断られたと聞いたことがある。

 

  *カットは写真をスケッチ風に模写したもの

 

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(つづく)