鄙乃里

地域から見た日本古代史

9.聖徳太子の伊社邇波の岡

 9.聖徳太子の伊社邇波の岡

 山部赤人の本歌の射狭庭(いさにわ)の岡と、聖徳太子等が訪れた伊社邇波(いざにわ)の岡とでは文字が異なるため、これらは別であり、読み方も上記のように異なるとの指摘もある。

上宮聖徳の皇を以ちて、一度と為す。及、侍は高麗の慧慈僧・葛城臣なり。時に、湯の岡の側らに碑文を立てき。其の碑文を立てし處を伊社邇波の岡と謂ふ。伊社邇波と名づくる由は、當土の諸人等、其の碑文を見まく欲ひて、いざない来けり。因りて伊社邇波の岡と謂ふ、本なり。記して云へらく、

        (岩波書店   日本古典文学大系風土記』)
                                                                

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  でも、それはないだろうと思う。『伊豫国風土記』の編纂者が「いざない来る」に合わせて、そのような文字を当てただけのことだろうから、どちらも「いさにわ」と読んで間違いないと思う。松山でも、伊佐爾波(いさにわ)と読んでいるし、山部赤人の射狭庭が正しいのではないだろうか。

 松山市では、この岡は現在の伊佐爾波神社の旧鎮座地で、湯築城(ゆづきじょう)があった場所(道後公園内)だとしている。が、実際は、河野氏湯築城を築造する際に、城山を独立した岡にするため丘陵地を削った。ちょうどその箇所が伊社邇波の岡の地であり、現存していないともいわれる。

 神社の由緒によると伊佐爾波神社は『延喜式』の式内社で古社であることは確かだが、元は道後公園山麓にあった小さな神社で、岩崎神社と呼ばれていた(あるいは後にそう呼ばれている)とのことである。その岩崎神社は(昔と場所が同じかどうか)現在も公園内にある。そして、その伊佐爾波神社の旧地とされる岩崎神社のあたりが伊社邇波の岡で、湯岡碑文が存在したと推定される場所だというのである。

 ところが伊社邇波の岡の碑文の場所は削られていて、もう無いはずなので、河野氏が築城の時に湯岡碑を移動させたのだとも言っている。ただし、その碑文は、現在も見つかっていない。

 「伊豫の高嶺」(石鎚山)を望む場所から考えても、これらの話を当地に比定するのはとうてい無理があり、疑わしいかぎりではないだろうか。

 

 

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(つづく)