鄙乃里

地域から見た日本古代史

25.熟田津石湯の地は?(14)~島山のこと 2~

25.熟田津石湯の地は?(14)~島山のこと 2~

 天保13年(1842)完成の『西條誌』にも、「歌枕名寄(うたまくらなよせ)」や「伊豫國名所歌盆石圖」からとして「島山(しまやま)」を詠んだ歌がいくつか紹介されている。

  雲間より  入日にまかふ  志万山の  ふもとめくりは  泊りとそきく

  志満山に  散るたちはな  うすにさし  つかへまつるは  まうち君たち

  島山の  尾乃上のさくら  ちるをりは  風に落そふ  滝の志らいと

  波間より  見へしも浪の  外ならて  花さきかおる  おきつ島山

  桜さく  おきつ島山  見わたせは  浪にかヽれる  花のしら雲

  島山に  照日立花  うつにさし  つかへ奉は  まうち君たち

 この中には、

  島山に照れる橘うずに刺し仕へまつるは卿大夫たち(万、4276)

のように、大和か伊予かで解釈が分かれている万葉歌も混在しているが、他の幾首かは西条の別の地誌にも掲載されていて、内容的にも当地の島山を詠んだものと考えていいようである。f:id:verdawings:20200126220504j:plain

    (右写真 下島山にある飯積の岡)

 上の万葉歌にしても、大和にそのような場所はないが、西条の島山には足仲津彦尊(仲哀天皇)と息長足姫尊神功皇后)が立ち寄ったという櫟津(いちいづ)の岡があり、斉明天皇の橘の木や、公卿(まえつきみ、まうちきみ)の伝承とも、この歌の内容はよく合致している。西条の歌ではないかと思う。

 歌人赤人が船で西条の沿岸へ入り、熟田津に向かってきたときに、先ず名高い伊豫名勝の島山が見えたので、「島山の宜しき国」と詠んだ。次ぎに彼方を仰ぐと「伊豫の高嶺」と呼ばれる、ごつごつした石鎚山の北壁の頂が神々しく輝いていた。
 そしてその麓に広がる神野(新居郡以前は、ここは神野郡だった)あるいは磯野の里が見え、熟田津の石湯の岡が見えたのであろう。その石湯の岡に立ち、昔日の天皇舒明天皇斉明天皇)や聖徳太子らの行幸を偲んで懐古の情とともに詠まれたのが、この長歌ではないだろうか。

山部赤人の進路予想
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     赤色破線は(往古において)想定される概略の海岸線です(満潮時)。干潮時には下島山の
     あたりまで
退潮したのかもしれません。
     現在の埠頭の付近は、多くが昭和30年代の新産都市指定以後の埋め立て地で、その南側は江
     戸時代に
干拓された新田です。
     赤人の進路は斉明天皇の航路から想定しました。

 赤人の来湯年については明確でないし生没年も分からないが、若い時から各地を旅して歩いたことは確かだと思う。それでこそ、あの多くの優れた叙景歌が生まれたのだろう。「伊豫の湯」の本歌にはあまりにも臨場感があるため、最初は白鳳地震以前の青年時代の作かと思ったが、それでは反歌での回顧の情があまり意味をなさない。また後年になって旅の思い出を回想したのかとも想像してみた。しかし、今は神亀年間(724~728)頃の作歌だとしても不思議とは思わない。なぜなら、伊豫の湯周辺の景観は天皇らの行幸時代からかなり変貌していたとしても、当時はまだ伊豫の湯の場所そのものは存在したからである。「臣の木も生い継ぎにけり」などの言葉が、むしろ、その環境にふさわしい気もする。

 本歌の中にある「伊狭庭の岡」の「伊(い)」は接頭語、「狭(さ)」は神聖、「庭(にわ)」は「野」の意味だとすると、「伊狭庭」は、イワツチの神が住みたもう霊峰f:id:verdawings:20200126225041j:plain石鎚山の麓に広がる神聖な里。即ち「神野」の意味になる。また「伊曽乃(磯野)」は「いそにわ」とも読める。伊曽乃神社の岡はたしかに湯の岡の側らにあるし、石鎚山頂を遙拝できる格好の場所でもある。現在でも伊曽乃神社の一の鳥居前から見ると、正面に山頂が望める。

(右写真 鳥居前方から見た石鎚山頂。逆光なのでセピア調にしました)

 伊曽乃神社の祭神は天照大神武国凝別命(たけくにこりわけのみこと)であるが、武国凝別命の父は伊予の湯を五度(いつたび)訪れた天皇等の最初に見える景行天皇である。仲哀天皇神功皇后は櫟津の岡を訪れて下島山の飯積神社(いいづみじんじゃ)の祭神になっている。同じ西条市飯岡(いいおか)の王至森寺(おしもりじ)の伝説は、舒明天皇の船が嵐に遭遇したとき灯火に導かれてこの森に避難された。それで、ここが王至森(王が至る森)の地名になったと伝えていて、王至森寺の御詠歌は「ありがたやたつあらなみをしづめつつみ船導く森の燈」ある。橘天王(斉明天皇)らは西征時に西田の熟田津に逗留している。山部赤人の歌からは舒明天皇聖徳太子らも石湯の岡の温湯を訪れていたことがそれとなく窺い知れる。反歌にある大宮人公卿神像も橘新宮神社に存在しているのである。

 このように検証すると、赤人の本歌の内容は西条の地形にぴったりといえる。
 地形がよく真実を語るとは、このことであろう。


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つづく