鄙乃里

地域から見た日本古代史

15.熟田津石湯の地は?(4)公卿神像

 15.熟田津石湯の地は?(4)公卿神像

 橘新宮神社(たちばなしんぐうじんじゃ)は、現在は豊受大神天太玉命瓊瓊杵尊を祀っている。伊勢外宮の祭神であるが、これはおそらく元の橘神宮の社名や、中野の伊曽乃神社が内宮の天照大神(荒魂)を祀っていることに関わりがあるのだろうと思う。

 しかし、もとは橘天王社といって、別の三座の木像を祀っていたという。中央が白衣の天子像で、左は春宮(とうぐう)、右は矢先または前矢前と伝わるという。別に公卿神像(くげしんぞう)32体があり、これも木像で、祭神の供奉(お供)をしてきた者だという。祭神の尊号は伝えられていないが、種々の史料から判断して、この天子は斉明天皇を祀る神像だと考えられる。矢先は分からないが、春宮はおそらく中大兄皇子だろう。すぐ東の古川という土地にも御所神社の旧跡があり、やはり熟田津に関わる神社とされていて、天智天皇を祭神としている。

 また橘新宮神社では、この公卿神像32体のうちの1体が、橘新宮神社宮司家の遠祖だとも伝えている。これらの公卿神像とは、いわゆる群臣(まえつきみ)や天皇近侍の女性たち、つまり、山部赤人反歌「ももしきの大宮人の飽田津に船乗しけむ年の知らなく」に出てくる「大宮人」の一部ではないだろうか。そうであれば、大田皇女や額田王を模した木像も中には存在するのかも知れない…。

 神社には現在、24体の公卿神像が残されているというが、そのうちの1体の内部から『伊豫の高嶺』の著者である真鍋氏らの手により、昭和40年代に「熟田津村橘」の墨書が発見されている。その墨書の続きは読めないが、写真を見るとまだ文字があるような感じであり、あるいは「熟田津村橘(天王社)」とでも書かれてあったのかもしれない。ほかには梵字の経文らしいものと「正見敬白」の文字が見える。木像の制作時に書かれたとの明証はないが、この地が熟田津村であったことを証明する有力な物証であることは間違いない。

 

 

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(つづく)