鄙乃里

地域から見た日本古代史

14.熟田津石湯の地は?(3)~熟田津と西田村~

 14.熟田津石湯の地は?(3)~熟田津と西田村~

 熟田津が松山周辺でなければ、熟田津の地はいったいどこにあるのだろうか?
 先の『伊豫温故録』には、次のような一文が書かれている。

真の熟田津の地は道前なる新居郡西田村なり

 そこでは『保國寺縁起』という史料を引いて、いろいろと説明がなされている。ほかにも松平西條藩の『西條誌』と同じ記述が多いことから、この「新居郡」の項の説明は主として、この二つの史料を中心に編纂されているものと考えられる。もちろん、自身で実地に採録された独自資料も含まれている。

  そこで今度は、この線に沿って考えてみよう。
 新居郡(にいぐん)は現在の愛媛県新居浜市(にいはまし)と旧西条市に相当する地域である。一部地区を例外とすれば、ほぼ昭和10年代以前には全域が新居郡であった。そのうち新居郡の西田村とは現在の西条市西田のことである。

 『保國寺縁起』は、西条市中野にある万年山保国禅寺(はねやまほうこくぜんじ)の掛け軸に書かれた寺の縁起書で、書かれた時期は享保16年(1731年)。当時の住職が書いたものであり、その中に次の記述がある。 

(熟田津)今俗西田作非也。…略…行宮之跡、今尚在矣、古来此所植一樹、示其跡、名曰御所殿木、即熟田津石湯行宮之跡是也、


(熟田津のことを)今は俗に西田と称しているけれども、そうではない(本当は熟田津が正しいのである)。 …略…
 行宮の旧跡は今でも残っている。昔からこの場所に一樹を植えて、その目印としている。その木を名付けて御所殿木(ごしょどのぎ)という。すなわち、熟田津石湯行宮の跡はこれである。

 このように書かれている。

 また、西田の東隣りの洲之内(すのうち)にある橘新宮神社の『旧故口伝略記』(きゅうこくでんりゃっき)も、西田について以下のように伝えている。

往古此中津は地形広く海山近く、水は鴨川を受けて水田多し。依て人住み易き故に家多し。之に依て俗にニギタヅ千間と申したるとて、今の世人誤りて西田千間と申すなり。
                                             (真鍋充親著『伊予の高嶺』より)

f:id:verdawings:20191124232345j:plain この橘新宮神社(たちばなしんぐうじんじゃ)は、昔は橘大明神、花の郷神宮、橘天王社と号したと神社の社号石に記されていて、上記の中津(中州とも中島とも称した)にその旧跡があった。今はその地を宮の窪(みやのくぼ)というが、それが、前述の御所殿木の場所である。

 つまり、御所殿木は洲之内の橘新宮神社の旧跡を指しているのである。そして『保國寺縁起』は、その旧跡を、斉明天皇の熟田津石湯行宮の跡だと言っているのである。

  *写真は橘新宮神社旧跡を示す御所殿木

 

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西条市西田周辺地図

*橘新宮神社旧跡地は以前の地図は西田でしたが、近年の区画整理で現在は安知生新開になっているようです

(つづく)