鄙乃里

地域から見た日本古代史

2.『伊豫国風土記』の湯郡と道後温泉

 2.『伊豫国風土記』の湯郡と道後温泉

 古代「伊豫の湯」道後温泉説は、もともと『伊豫国風土記逸文の記述を根拠として成立している。

伊豫の國の風土記に曰はく、湯の郡、大穴持命(おおなもちのみこと)、見て悔い恥ぢて、宿奈比古那命(すくなひこなのみこと)を活かさましく欲(おもは)して、大分(おおきだ)の早見(はやみ)の湯を、下樋(したび)より持ち度(わた)り来て、宿奈比古那命を漬し浴(あむ)ししかば、暫(しまし)が間(ほど)に活起(いきかへ)りまして、居然(おだひ)しく詠(ながめごと)して、「眞暫(ましまし)、寝ねつるかも」と曰(の)りたまひて、践(ふ)み建(たけ)びましし跡處(あとどころ)、今も湯の中の石の上にあり。 凡て、湯の貴く奇(くす)しきことは、神世(かみよ)の時のみにはあらず、今の世に病に染(し)める萬生(ひとびと)、病を除(い)やし、身を存(たも)つ要薬(くすり)と為せり。

 

          (岩波書店   日本古典文学大系風土記』)

 「見て悔い恥ぢて」の正確な意味は分からないが、推察するに、大穴持命と少彦名命は国土開発のため二人で各地をめぐっていた。ところが、その道中で意見の違いからか、大穴持命が少彦名命を、どうかして仮死状態にさせてしまったことが考えられる。驚いた大穴持命は、何とか蘇生させようと霊妙な薬効があるとされる温泉に少彦名命を漬けてみたところ、少彦名命はしばらくして生き返り、「ちょっとのあいだ、いねむりでもしていたのかな~」と、何事もなかったように元気に足を踏みしめた。その足跡が今も湯の中の石の上に残っている…という話で、神代だけでなく、今も病に苦しむ万人にとっての温泉の効用とありがたみを説いている。

 そして、ここには「湯の郡」と書かれている。
 ただ、風土記の官命が和銅6年で、好字二字令も同年であることから考えると、その風土記の郡名が二字で書かれていないのは奇妙で、「ここでいう湯の郡と湯泉は、ほんとうに道後温泉のことなのか?」との疑念も生じなくはない。しかし飛鳥池で発見された木簡には、たしかに「湯評」の文字が出ているし、また、『法隆寺縁起并流記資材帳』には、747年に温泉郡の文字が認められる。従って、その間をつなぐ郡名として「湯郡」の名称が考えられ、温泉郡が「湯郡」であった確度は高いといえる。そのため、これをもとに、この「湯の郡」と湯泉が、かつては温泉郡であった松山市道後温泉だとしているのである。

 ところが現在では、このような経緯を抜きにしても、古代「伊豫の湯」が道後温泉であることは自明の事柄に変わってしまっている。その始まりは『伊豫国風土記』の解釈に始まるものだが、江戸時代の伊予の郷土史料や、明治27年道後温泉本館建設などによる影響も大きいといえよう。

 

 

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(つづく)