鄙乃里

地域から見た日本古代史

22.熟田津石湯の地は?(11)~橘天王の石湯と五度の行幸~

22.熟田津石湯の地は?(11)~橘天王の石湯と五度の行幸 

 『旧故口伝略記』には「橘天王が石湯を造った」との記事が見える。これを古代「伊豫の湯」の石湯と混同される人がおられるかもしれないが、湯の岡が昔から存在するように、古代「伊豫の湯」の石湯は橘天王の逗留以前から存在したものである。

 『伊豫国風土記』によると、天皇で最初に「伊豫の湯」に行幸したのは景行天皇(並びに皇后)である。景行天皇がこの地を訪れたことと、その御子の武国凝別命(たけくにこりわけのみこと)が次の成務天皇時代に当地へ来たこととは関連性があるのではないかと思う。

 伊曽乃神社(いそのじんじゃ)の由緒では、武国凝別命は伊勢の磯宮から天照大神を奉祭して西条の地に着いたと伝えられている。御船森(おふなもり)といって上陸の伝承地も西条市内に残っている。伊曽乃神社は古い史料では磯野宮・磯野神社と書かれているが、その当時の伊勢の磯宮には叔母の倭姫がいたようである。かの日本武尊も倭姫を訪ねている。だから命(みこと)が西条にやってきたのは倭(やまと)王権による国土開発のためであろう。そして当地の「いそのの岡」に入った。そこに伊曽乃神社が鎮座し「伊曽乃神」の名で天照大御神武国凝別命を合祀しているわけである。  

  伊曽乃神社 由緒(ホームページ)

 次に、熊襲征伐の援軍を得るためか?と思うが 帯中日子尊(仲哀天皇)と息長帯比売命神功皇后)も南国巡行の際に当地に立ち寄ったようで、市内の飯積神社(いいづみじんじゃ)には帯中日子尊(たらしなかつひこのみこと)・息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと)、母違いの弟の十城別王(とおきわけのきみ)、ほか2柱が祀られている。武国凝別命は帯中日子尊の叔父である。このような系譜のつながりから、聖徳太子舒明天皇斉明天皇と二人の御子らも熟田津に立ち寄ったものかと思われる。それに当地には何といっても「伊豫の湯」があった。

  愛媛神社庁 飯積神社

 『旧故口伝略記』が石湯八幡宮神功皇后の行宮跡だと伝えているのは、皇后が新羅遠征を終えた帰路に再度、この地に立ち寄ったものではないか。 f:id:verdawings:20200108224034j:plain したがって、橘天王が造った石湯とは古代「伊豫の湯」の石湯ではなくて当然ながら別の場所を指すはず。もろもろの記事を照合すると、こちらの石湯は石湯八幡宮の付近にあったように推測される。 

 そこで次のように考えてみた。
 「豫州温泉記」に、温泉は「海から2,3里離れている。源泉が山際から湧出して、その余流が海に注いでいる」との内容が記されているが、その余流が注ぐ海口とは、おそらく橘天王が命名した琵琶湖のことであろう…と。そして、琵琶湖への流出口のところに、土木工事好きといわれる橘天王が露天風呂を造らせたのではないかと。

 『旧故口伝略記』によると、地元民はその場所を最初は石湯と呼んでいたそうであるが、それは海への流出口にはなるが、同じ石湯の源泉を使用していたからではないのだろうか。
 しかし「石湯」が後に八幡宮社名になったため、恐れ多く感じて、その地名を「石湯」から「切石」に変更したという話である。つまり「切石」は、このあたりの岩を切り出して天皇が露天風呂を造ったからではないかというわけである。

 現在の湯之谷温泉(ゆのたにおんせん)から石湯八幡宮旧跡までは、地図上の直線距離で約900mある。当時はその間に岡があったとすれば約1㎞と考えてもいいだろう。毎日岡の上を歩いて石湯に行くのもたいへんかもしれないから、湯の岡の麓に露天風呂があると便利である。

 ほかにも、この地方では石風呂(いしぶろ)に入る習慣があるため、これは石風呂のことではないかという説もある。石風呂は洞窟を利用した蒸風呂のことで、今でいうサウナである。いずれにしても、この石湯が山際の湧出口に当たる「伊豫の湯」そのものでないことは確かだろう。

 また「此の湯は往古より冷湯なるとぞ。時に俗説に温ならざることの堅き名の如しと云い習わす」とも記されている。この部分は『旧故口伝略記』というよりも、編者の記述かと思われ「往古より冷湯といわれている」と書かれている。が、これは、疑問である。なぜなら、斉明天皇が立ち寄ったのは征西の途次ではあっても、1月14日である。舒明天皇らが訪れたのも12月である。そんな寒い時季にわざわざ伊豫の冷湯まで湯治のために来るだろうか。風邪引いてしまうだろう。

 仮にその伝承が本当だとしても、それは大地震後のことではないかと考えられる。大きな地震によって熱源の位置や泉脈が変わって温度上昇したり、逆に冷泉になってしまう場合もあるのではないか? また温泉場によっては源泉口がいくつかあって、そのうちの一つが冷泉の場合などもあるらしい。江戸時代には湯之谷の湯壺がすでに冷泉だったことから、そう考えられたのではないだろうか? 現在の湯之谷温泉も源泉掛け流しだが、18℃の鉱泉を湧かしているという。

 石湯の「石」は昔は全部「いわ」と読んでいた。山際の岩の裂け目から噴出していたから、あるいは湯池の周囲が岩で囲まれていたから、ほかにも霊峰石鎚山イワツチの神が住みたまう山)を仰ぐ村里の山懐(やまふところ)に湧出する温泉だから、その名を冠した。このような意味合いから「石湯」と呼ばれていたのではないだろうか?

 とくに最後の解釈は、すぐ近くに現在も石鎚修験道の64番札所前神寺(まえがみじ)や石鎚神社の口の宮(くちのみや)があることからも十分類推されよう。「冷泉」ではなくて「霊泉」の間違いではあるまいか? …もちろん、個人的な感想である。


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(つづく)