鄙乃里

地域から見た日本古代史

20.熟田津石湯の地は?(9)~橘の岡~

 20.熟田津石湯の地は?(9)~橘の岡~

  今は存在しないが、当地には昔、岡があったようである。
  橘新宮神社の『旧故口伝略記』には、

  橘 岡
昔、此岡を石湯の岡とも申せしとぞ。その後橘天王の宣言に依りて橘岡と申すなりとぞ。

                  真鍋充親著『伊豫の高嶺』より

とあり、これも橘天王の「橘の花かほる里なり」の宣言により、橘の岡と呼ばれるようになった。つまり、そのときまでは石湯の岡(いわゆのおか)と称していた。ということは、この橘天王は、やはり斉明天皇に相違ない。『日本書紀』には「熟田津の石湯行宮」と正しく書かれている。即ち、斉明天皇が熟田津に逗留するまでは、当地でも石湯の岡と呼ばれていた証拠なのである。

 そう考えると、橘天王社や橘新宮神社の社号などもすべて、石湯八幡前の橘(たちばな)の木と、斉明天皇の宣言に起因する名称であろう。そういえば斉明天皇の朝倉宮も「橘広庭宮」と言っている。これも斉明天皇の呼び名「橘」に由来する名称ではないだろうか? ただし『万葉集』の「橘の島」については別かもしれないし、複雑になるので、ここでは省略する。

 因みに明治22年から旧西条市が発足した昭和16年4月29日までの期間も、西田から西側の地域は新居郡の橘村と称しており、西田(にしだ)は橘村の一部だった。現在も橘小学校・橘公民館など、「橘」の名称を今に残している。

昔、此岡と申す地は南石湯に続き、東に鴨川の一流を受けて、岡の北をめぐりて西に流れる。西は大江の湊の上にあたるは琵琶湖なり。是橘天王の橘岡を宣りたまふとなり。昔の名は石湯の岡と申せしとぞ。此処田地となりて後時(のち)俗に岡山崎と申す。只今は俗に山崎と申す其所也

                  真鍋充親著『伊豫の高嶺』より

 これによると、橘岡(石湯の岡)に続く山麓に石湯があり、そのため石湯の岡と呼ばれていたと思われる。そして加茂川の一流が東から岡の北側を巡って西へと流れ、大江の湊(熟田津の入り口の湾口)から1里ほど入り込んだ琵琶湖という琵琶の形をした入り江に注いでいた(この入江の北岸に熟田津の中州があったように推察される)。これは『豫州温泉記』に、温泉は「海から2,3里離れている。源泉が山際から湧出して、その余流が海に注いでいる」と記されている内容と、地形がよく合っている。その岡は後世に平地となり、田地となって、岡と山際の名を残して岡山崎と言っていたが、今は、単純に山崎とだけ言っている。

 しかしその場所には、後年にも湯壺があって天保年間の『西條誌』に次のように記されている。

  湯の谷
洲之内村の内、字山崎の内に、湯の谷と称する処あり、(れいせん)湧キ出ツ、竅(あな)の広サ方三尺許にして、深サハ、二間竿を下に、一杯に届ク処あり、又不届して、底の知れざる処あり、(ひつ)沸として盛ンに涌ク、
              (「れいせん」は霊の略字と泉、「ひつ」は咸の下側に角の字)

 そして、その地に大正時代に浴場が出来、現在も冷鉱泉を湧かして利用しているが、弱アルカリ泉の湯之谷温泉が営業しているのである。

 それらから推論できることは、石湯の岡に続く南の山麓にあった「石湯」が、即ち、古代「伊豫の湯」であり、この石湯の岡が『伊豫国風土記逸文にいうところの湯の岡であろう。少なくとも山部赤人が本歌に詠んでいる「みゆ(御湯)」へと続く岡であろう。その岡の反対の麓に石湯八幡があり、入江を挟んで熟田津があり、斉明天皇の石湯行宮(橘新宮神社旧跡)があった。それでこそ赤人も、あの反歌を詠むことが出来たのである。

  ももしきの大宮人の飽田津に船乗しけむ年の知らなく

これは額田王の万葉歌、

  熟田津に船乗りせむと月待てば潮もかないぬ今は漕ぎ出でな

これを念頭に置いたものであろう。

 「飽田津」の文字については正直に「あきたつ」と読み、天智天皇百人一首「秋の田のかり穂の庵の苫をあらみ」から「秋田津」のことだとする説などもあるが、天智天皇が母への愛慕を歌に詠んだのは秋かもしれないが、斉明天皇らが熟田津を訪れたのは現在でいえばまだである。山部赤人がわざわざ字を替えてまで「秋田津」などと詠むはずがない。「年の知らなく」についても、実際は知らないわけではなくて、感慨をこめるための表現法に過ぎないのである。
 また「柔田津」などの表記も、穏やかな、柔らかいなどの意味が「熟」と相通ずるもので、単に文字を変えただけのことであろう。
 この「飽田津」の歌の解説をいろいろ調べてみたが、いずれも簡単に「熟田津」と読み替えておられた。しかし、それに対する説明のほうは全く書かれていない。「飽」の字は、どうやったら「にき・にぎ」と読み替えられるのか。不思議と言わざるをえない。

 『旧故口伝略記』にも「饒立里(にぎたつのさと)」の表記があるように、「熟」と「饒」は読みで共通し、「熟」と「柔」も意味で共通する。しかし、「熟」と「飽」が結びつく理由は解せない。昔は筆文字のため「饒田津」がどこかで「飽田津」になっただけの話ではないかと、自分では思っている。「あきたつ」などと読んだら、赤人のこの歌は台無しである。

 

 


   -付記-

昔、此岡と申す地は南石湯に続き、東に鴨川の一流を受けて、岡の北をめぐりて西に流れる。西は大江の湊の上にあたるは琵琶湖なり。是橘天王の橘岡を宣りたまふとなり。昔の名は石湯の岡と申せしとぞ。此処田地となりて後時(のち)俗に岡山崎と申す。只今は俗に山崎と申す其所也。

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上の説明文に合わせておよその配置図を描いてみました。
このように解釈できると思うのですが、どうでしょうか?
石湯八幡宮旧跡の南には現在も川があり、これは昔の加茂川の支流だそうです。

下の現在地図と比べてみてください。 

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いそのの岡が石湯の岡に近く(湯の岡の側らに碑文を立てき)、湯之谷温泉が石湯に近いことが分かります。湯之谷温泉の小字は「山崎」です(西条市洲之内山崎甲1193)。


 

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(つづく)

 本年はご覧いただき、まことにありがとうございました。
 「伊豫の湯」はもう少し続きます。