鄙乃里

地域から見た日本古代史

3.倭の五王、比定の問題点について

 3.倭の五王、比定の問題点について

 終わりに、倭の五王を比定するにあたって問題とされる箇所についての私見を、簡単に書き加えておきたい。

 以下の表は倭国朝貢記事を順に並べて、その間に古事記』の干支による天皇崩御を当てはめてみたものである。
 この時期の天皇の『古事記』の干支に信頼性があるかどうかなどは分からないし、応神天皇崩御年にはかなり疑問もあるが、その他は自分が調べた限りにおいて、だいたい適合しているのではないかと思われる。また、それよりほかに、崩御年を知る方策もないのである。 

394     甲午   応神崩御
413 東晋 安帝 義煕9年 癸丑   倭国東晋に貢献(『晋書』安帝紀
421 宋    武帝 永初2年 辛酉 詔に曰く、倭讃貢献、除授を賜う(倭国伝)
425        文帝 元嘉2年 乙丑 讃また司馬曹達を使わし、表を奉り貢献(倭国伝)
427        文帝   丁卯   仁徳崩御
430        文帝 元嘉7年 庚午  ?  倭国王遣使奉献(文帝紀
432        文帝   壬申   履中崩御
437        文帝   丁丑   反正崩御
438       文帝 元嘉15年 戌寅 讃が死んで、弟珍が立ち、遣使貢献(倭国伝)
安東将軍、倭国王爵位を叙する
遣使倭隋ら13人にも爵位を叙する(倭国伝)
倭国王珍を安東将軍と為す
この年、遣使朝貢(文帝紀
443       文帝 元嘉20年 癸未 倭国王済遣使奉献
安東将軍、倭国王爵位を叙する(倭国伝)
451       文帝 元嘉28年 辛卯 倭王倭済を6国諸軍事、安東将軍、倭国王とする
遣使23人にも称号が与えられる(倭国伝)
454     孝武帝   甲午   弁恭崩御
457     孝武帝   丁酉   安康崩御   書紀は456年(丙申)に崩御
460     孝武帝 大明4年 庚子 倭国遣使奉献(孝武帝紀)
462     孝武帝 大明6年 壬寅 済が死んで、世子興遣使貢献
倭国王世子興を安東将軍、倭国王に叙する(倭国伝、孝武帝紀)
                                    興が死んで、弟武が立ち、7国諸軍事、安東大将軍、倭国王を自称
477       順帝 昇明元年 丁巳 武? 倭国遣使奉献(順帝紀
478       順帝 昇明2年 戌午 倭国王武遣使上表奉献
6国諸軍事、安東大将軍、倭王爵位を叙する(倭国伝、順帝紀
479 南斉 高帝 健元元年 己未 新たに6国諸軍事、安東大将軍に進め 、倭王武の号を鎮東大将軍とする(『南斉書』倭国伝、『梁書武帝紀)
489     己巳   雄略崩御   書紀は479年(己未)に崩御
502 梁    武帝 天監元年 壬午 武の号を征東大将軍に進める(『梁書武帝紀)

 まず、讃の弟が珍と書かれている点だが、上から6列目の『宋書』文帝紀にある元嘉7年庚午(430)に見られる倭国王遣使朝貢が、王名が書かれていない履中天皇によるもので、朝貢はしているものの、この履中の情報が十分認知されていなかったため履中が抜けて、珍が讃の弟になったのではないかという点が推測される。「讃=履中」は年代と在位年から考えてもあり得ないので、讃の子が履中で、履中の弟が珍。この真ん中の「子の履中」の情報が完全でなかったため、讃と珍が兄弟のように直結したのではないかと思う。この記事に王名が書かれていないことから考えても、そのことが類推され得る。
 履中天皇在位は短いといっても、その点は反正天皇安康天皇も同様なので、倭国の王で履中天皇だけが抜けるというようなことは考えられないのである。

      文帝 元嘉7年 庚午(430 ) 倭国王遣使奉献(『宋書』文帝紀

  『古事記』の干支によると、仁徳天皇崩御年は427年になり、それなら上記の奉献年は履中天皇のものとして、年代的にも合致するようである。したがって、南朝への遣使朝貢は五王ではなく、実際には、六王であったと自分は考える。
 (ほかに無記名の[413東晋 安帝義煕9年]は讃で[460宗 孝武帝大明4年]は興だと思われる)

      

   仁徳…(子)履中…(弟)反正…(弟)允恭…(子)安康…(弟)雄略


 また489年、502年の、倭王に関する斉・梁の皇帝が発した詔についても、国号が変わったために勝手に進号させただけのものだと思う。

      武帝 天監元年 壬午(502) 武の号を征東大将軍に進める(『梁書武帝紀)

 武が雄略である場合、この時すでに雄略天皇は没していた(このころには『日本書紀』の年代修正が完了しているので、崩御年は479年のほうが適当かもしれない)可能性が高く、当然ながら遣使も何も出していない。ただ通交がないまま、新皇帝の権威により形式的に進号させただけに過ぎない。

 その他の箇所にも倭國王の朝貢年と爵位の授与年が一致しないケースがあるが、爵位の授与は朝貢(ちょうこう)の翌年とか、後年になる場合があるので、多少のズレが生じるのは仕方がない。とくに履中・反正・安康天皇は在位期間が短かかったから、爵位授与などの年代が、天皇の在位年から外れる可能性は多分にあるだろう。

 つまり自分の結論として、南朝朝貢したのは倭の五王」ではなく、実際には「倭の六王」であったということである。

 

 

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(おわり)