鄙乃里

地域から見た日本古代史

2.倭の五王、朝貢の背景

 2.倭の五王朝貢の背景

 当時の倭国朝鮮半島も含めた文化圏の中に存在したから、朝鮮半島における自国の影響力をめぐって、北方の高句麗とはしのぎを削り合っていた。好太王碑文に見られるように、当時の高句麗強国であり、軍事的にも倭国と対立していたようである。

 そのため中国皇帝から与えられた爵位(しゃくい)によって、倭国朝鮮半島への軍事的な進出と、強敵高句麗南下策への対応を計ろうとしたことが考えられる。その爵位を得るためには、このような堂々とした漢風名のほうが外交上、都合がよかったのかもしれない。

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 上記のような目的から推測すると、この王名はおそらく、大陸の事情に明るい渡来の官吏が考えたものではないだろうか。これら漢風の王名は、和風の王名が持つそれぞれの音や意味をよく理解した上で、それを品格のある漢字一文字に置き換えている。中国の南朝側で名付けた王名とは考えにくい。
 たぶん、そのやり方は「讃」の時代に始まり、それを代々の王権が継承したものではないだろうか。

 他方で、「倭の五王天皇のことだとしたら、これらの外交記事がなぜ『日本書紀』に出てこないのか」との指摘もある。
 記紀成立当時(8世紀初頭)の国情から考えると、たとえ形式的にしても「天皇が中国の皇帝に冊封(さくほう)されていた」などという事実を、独立宣言ともいうべき正史にわざわざ書くわけもないと思うが、現実には行われていたとしても何ら不思議ではない。

 仁徳天皇以後の事績には皇位をめぐる骨肉の争い、女性関係、内政、処罰、エピソードのような記事ばかりが多くなり、「雄略紀」を除くと、応神・神功紀のような外交記事は極端に少なくなっている。それがかえって東アジアにおける国際的な軍事・外交上の様々なやり取りが、水面下では盛んに行われていたことを物語っているとも言えるのではないだろうか (「仁徳紀」には呉国から朝貢があったことが一度、「雄略紀」には呉国に使いを出したことが二度ばかり簡単に書かれている)。河内の大型古墳群を見れば、それが分かるのである。
 ただ、国史に記すには適当でない大和朝廷が判断したから、あえて書かなかっただけの話だろうと思う。

  ともあれ、3世紀の半ば邪馬台国女王卑弥呼・台与が、魏・晋に朝貢して以来、東晋の終わりから南朝宋に至るまでの150年近くは、古代中国の文献に倭国との通交記事が出てこないと言われている。通交なしが事実だとすれば、それは、晋朝がその後混乱期に入り、さらには帯方郡(たいほうぐん)も滅亡してしまったため、通交ルートの確保そのものが困難になったせいかもしれない。がまた、中国皇帝の影響力低下により、朝貢しても益なし倭国のほうで判断したためでもあろうか?

 しかし、長く途絶えていた朝貢政策は、おそらく当時の友好国であった百済との接触を契機として再開され、高句麗と対立する百済加耶諸国(かやしょこく)との関係強化の中で、この五王の時代において極めて重要な国策として継続されてきたものだろう。

 

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(つづく)