鄙乃里

地域から見た日本古代史

大山祇神社は摂津の三島鴨か?(2)

 ~『伊豫国風土記逸文の疑問~ 

 前稿の通り『伊豫国風土記逸文の記事には疑問を感じるが、それが全くの作り事を書いているかというと、そうとも考えにくい。なぜなら、そんなことをしても、利益がないからである。そこで、本文と思われる文章をもう一度よく読んでみよう。           

乎知の郡。御嶋。坐す神の御名は大山積の神、一名は和多志の大神なり。是の神は、難波の高津の宮に御宇しめしし天皇の御世に顕れましき。此神、百済の國より渡り来まして、津の國の御嶋に坐しき。

  この内容から伊予と摂津両社の共通点を考えると、まず御嶋(みしま)の名があり、祭神はどちらも大山積神である、それに加えて和多志(わたし)の大神の可能性がある。『伊豫国風土記』が書かれた当時の淀川付近の地形はよく分からないが、三島鴨神社は淀川の三島江(みしまえ)の渡し鎮守とされていた。また伊予大三島は瀬戸内海の中央にあって、船を安全に東西へ通過させる渡しの神でもあるので、これらの共通性がある。

 しかし記紀では大山積神日本の国つ神とされていて、その大山積神百済で信仰されていたような話は聞いたことがない。そのため、この文章は別の視点から再検討しなければいけないのではないか…と思われる。『伊豫国風土記』の文章はどうも、本来は別の二つの事柄であったものが、いつのまにか一つの話に融合されているような気がするのである。

 その視点から考えてみると、この時期に百済から渡ってきたという神は、実際には神そのものではなくて、何れかの王族・貴人のことではなかったかと思うのである。その王族が淀川の三島江のあたりを治水し開発した歴史的事実から、後世に三島江の鎮守とされる三島鴨神社との緊密な関係性が生じたのではないだろうか。

  『古事記』には、仁徳天皇が「秦氏を役(えだ)ちて茨田(まんだ)堤及び茨田三宅を作り、……又、難波の堀江を掘りて海に通し、」と書かれている。事実とすれば、その秦氏とは弓月君(融通王)の集団であろう。その一族は、仁徳天皇の時に「波陀」の姓を授けられたといわれており、後に秦(はた)と称した。

 そこで『伊豫国風土記』を見ると、是の神(和多志の大神)は、たしかに仁徳天皇の御代に顕れたとは書かれているが、仁徳天皇の時代に百済から来たとは書かれていないのである。
  「顕れる」の意味は顕現する、即ち、潜在していたものが公に出てくる意味があるだろう。弓月君らが渡来したのは応神天皇の時代であるが、帰化した当時は、大和の朝津間腋上(あさづまわきがみ)に集団で居所を与えられていた。それが仁徳天皇の時代に(各地を開発し技術を伝えるためだろうか)諸国に分散されたといわれている。つまり「顕れましき」とは、その動きを指しているのではないか。仁徳天皇の時代に実際に淀川の治水工事を行ったのが秦氏であれば当然、摂津のあたりにも当時から、秦氏集団で居住していたはずである。

 百済の人々が伊予に移動した話はこれまで聞いたことがないが、秦氏については、すでに応神天皇の時代から伊予に住んでいた言い伝えがある。宇摩郡(うまぐん、現在は四国中央市土居町)の津根村(つねむら)には秦氏金集使(きんしゅうし)の話が伝わり、隣の新居郡(にいぐん、現在の新居浜市と旧西条市)の東部に至るまで、現在も秦姓の人が多くいる。倭国には弓月君以前にも父親の功満王が、仲哀天皇8年に先遣隊としてだろうか、来朝していた。そのため続いて応神天皇の時代に、弓月君(ゆづきのきみ)が百廿県の多数の人民を率いて渡来してきたのではないかと推察される。

  『続日本紀称德天皇天平神護2年(766)3月3日条に次のような記事がある。

伊予国の人で従七位上の秦毗登浄足ら十一人に安陪小殿朝臣の姓を賜った。浄足は自ら次のように言った。「難波の長柄の朝廷(孝徳天皇)は、大山上(正六位ほど)の安陪小殿小鎌を伊予国に遣わして朱砂(辰砂・朱色の顔料)を採掘させましたが、小鎌はそこで秦首の女を娶って、子の伊予麻呂が生まれました。伊予麻呂は父祖の姓をつがず、母の姓ばかり名乗っていましたが、浄足はその子孫であります」と。

                 (宇治谷孟訳 講談社学術文庫

 これが宇摩郡津根村(常村)の秦氏のことで、応神天皇の時代に津根村に来たと、地元では伝えている。土居町の津根太鼓台の布団締めには、斉明天皇安陪小殿小鎌の図柄が縫い込まれている。

 したがって仁徳天皇の時代にも、弓月君らの波陀(秦)氏が伊予国などへもかなりの数で移動してきたことは十分に考えられる。

 話は少し逸れるが、戦国時代に四国の雄とされた土佐の長宗我部元親(ちょうそがべもとちか)は、正式名を長宗我部宮内少輔秦元親と名乗る。そして、その元親の遠祖は、弓月王、功満王、孝武王…………始皇帝だと、家系図に記されている(長宗我部友親著『長宗我部』)。つまり通常では、弓月君は秦(しん)の始皇帝に繋がる王族の子孫である。が、ほかに中央アジアから来たイスラエル支族だという説などもある。

 いずれにしても百済人でない王民が当時、百済にいたということは、察するところ楽浪・帯方郡あたりに住んでいた遺民ではなかろうか。314年頃に両郡が滅んだため百済国内で暮らしていたものが、まず父の功満王が先遣隊として日本に来てから様子を見、次ぎにその子の融通王弓月君)がやって来たのではないか。百廿県の人民とは、たいそうな数である。

 裏にこのような事情があって、百済から渡来した大山積神仁徳天皇の時代に摂津の御島にいて、それから伊予の見島に移ってきたように『伊豫国風土記』が記し、『釈日本紀』が、そのように追認しているのではないだろうか。それをみんなが引用している。

 しかしながら『三島宮御鎮座本縁』では、仁徳天皇の時代には安芸の霧島宮から伊予の大三島の瀬戸浦に遷ったように書かれていて、また『予章記』では、摂津の三島鴨神社は、小千玉興らが祈った社壇(霊祠)の跡のようにも解されるのである。玉興は乎知国造の子孫だといっても小千氏であるから祈るとしたら当然、大山積皇大神に祈ったであろうし、役小角も同道していたとある。それに、伊予の見島を「御島」と呼ぶようになった理由についても『予章記』に記されているが、『伊豫国風土記』の内容とは話が全然異なっている。

 この『伊豫国風土記』の説に関しては『三島宮御鎮座本縁』の宝暦年間の編纂者も気にかかったのか、そのような話があるが「いまもその正否が分からない」と、いくぶん困惑したように補足している。

 それは何度も書いた黒田の庵戸宮で祀られていた大山積皇大神が伊予二名島の遠土宮に移された話であるが、実はその間にも、短期間に何度か宮の変遷があったらしく『三島宮御鎮座本縁』の伝承には、遠土宮の前が同国の比々喜宮とある。したがって、それを考えているのだろうと思う。

 是後世言摂津国三島江之事乎未知其正

是れ後世に言う摂津国三島江のことか、いまだその正しきを知らず

 是とは、比々喜宮が念頭にあるのだろうと思うが、この比々喜宮は『三島宮社記』には伊予国と書かれているし、孝霊天皇やその第三子の時代と、仁徳天皇の時代では二百年も離れていて話にならない。 

 その後、役行者は大宝2年に無罪放免となり、伊豆から呼び戻された。同時に玉興も参洛したとある。

 そのような次第から三島鴨神社は、699年に小千玉興らが祈りの場所とした三島江の社壇が起源である可能性があり、おそらくは仁徳天皇の時代から淀川の治水・開発に携わってきた弓月君秦氏集団と、のちに淀川三島江の鎮守とされた大山積神が結びついて伝承化されたものが、この『伊豫国風土記逸文の記事ではないかと自分は想定してみるのだが…はたして真実や如何?

 

 

f:id:verdawings:20190909234857j:plain

(おわり)