鄙乃里

地域から見た日本古代史

大山祇神社は摂津の三島鴨か?(1)

  ~『伊豫国風土記逸文の疑問~

 『伊豫国風土記逸文には大山祇神社摂津の御から移動してきたように書かれているが、それは、はたして真実なのだろうか?

 この記事に疑問を抱いているのは自分だけではないと思うが、記事自体が引用されることはあっても、半信半疑のまま放置されていて、それ以上考えてみることはないようである。しかし、これはかなり重要な問題である。

 以下は釈日本紀が『伊豫国風土記』から引いたとされる伊予の大三島と祭神に関する逸文である。

 御嶋
伊豫の國の風土記に曰はく、乎知の郡。御嶋。坐す神の御名は大山積の神、一名は和多志の大神なり。是の神は、難波の高津の宮に御宇しめしし天皇の御世に顕れましき。此神、百済の國より渡り来まして、津の國の御嶋に坐しき。云々。御嶋と謂ふは、津の國の御嶋の名なり。

            (読み下し文~岩波書店   日本古典文学大系

  内容は、伊予国越智郡(おちのこおり)に鎮座まします大山積神は、もとは仁徳天皇の時代に百済から渡ってきて摂津国の御島に鎮座していたのである。(したがって)今、越智郡大山積神の社を「御島」と呼んでいるのは、摂津国の御島の名を当てたものである。単純に読めば、このように解釈されるだろう。

 そのため、大山積神仁徳天皇の時代に日本に渡来した神で、それが最初、摂津国の御島にいたのであるから、伊予の御島の神は摂津から勧請したもので、伊予の御島の名称も摂津の御島から名付けられたものである。このような説もまかり通っているわけである。

 しかし、『釈日本紀』のこの文章には、いろいろと問題がある。
 まず冒頭の「伊豫の國の風土記に曰はく、」は当然『釈日本紀』による文章だが、「云々」以下の「御嶋と謂ふは、津の國の御嶋の名なり。」の文章もまた『伊豫国風土記』本文ではなく釈日本紀』(卜部兼方)の見解とも解釈できる。

 そうすると、本来の『伊豫国風土記』の地の文としては、

乎知の郡。御嶋。坐す神の御名は大山積の神、一名は和多志の大神なり。是の神は、難波の高津の宮に御宇しめしし天皇の御世に顕れましき。此神、百済の國より渡り来まして、津の國の御嶋に坐しき。

 この間の文章のみと考えるのが正しいと思われる。

 それなら「伊予の御島の神は摂津から勧請(かんじょう)したものである」との主張は、単に『釈日本紀』の見解を元にした二次説に過ぎなくなるのである。

 

 次ぎに大山積神について考えてみよう。

 現在の伊予の大山祇神社の由緒にある「大山祇神の子孫である乎知命(おちのみこと)が神武東征の前に…云々」の話はおくとしても、『三島宮御鎮座本縁』『三島宮社記』『予章記』などにはすべて、孝霊天皇の時代から大山積皇大神が黒田庵戸宮(くろだのいおどのみや)に祀られていた話が書かれている。越智玉積(おちたまづみ)の話にもそれが言及されている。

 そして、その後に伊予二名島の遠土宮へ遷り、仲哀天皇の時代に安芸の霧島厳島)へ遷座し、仁徳天皇の御代に伊予の大三島に戻った伝承も記されている。

 推古天皇の時代に造営された社殿は上浦町横殿のことで、現在の神社の旧址である。播磨から伊予へ戻った当初は神璽(しんじ)と神域だけがあったようで、横殿の造営が推古天皇の時代なら、おそらく鉄人退治の功績によって宮が造営されたものだろう。往古の神社は大体そうした形式と規模のものであり、神殿があっても小さな祠程度のものが多く、現在のような社殿の形式は天武・持統天皇あたりからだといわれる。

 横殿以前は播磨の明石の稲爪神社(いなづめじんじゃ)に遷座していたのであり、それ以前は同じく大三島上浦町で、その前が安芸の霧島(厳島の大元神社)だったわけで、何も推古天皇時代の横殿が伊予の見島の創始というわけではない。伊予の伝承では、大山積皇大神仁徳天皇の時代よりもはるかに古いのである。

 これらから考えると、伊予の大山積皇大神の歴史は『伊豫国風土記逸文の内容とは、まったく一致していない。

 『予章記』の原本は1400年頃の作で、『三島宮御鎮座本縁』『三島宮社記』は江戸時代の採録ではあるが、その内容は大祝家(おおはふりけ)に伝わる古記から編纂されたものである。現在の宮浦への遷座にしても、越智玉積の時代に行われたもので、造営を始めたのは文武天皇大宝元年(701)からで、正遷宮は養老3年(719)4月22日といわれ、『伊豫国風土記』の成立よりも早い。

 また周知のごとく「記紀」その他にも、天孫降臨の時代から大山祇神が存在していることになっており、したがって、これらの古記や年代を全否定しないかぎり、『伊豫国風土記』御嶋の記事の話は成立しないことになる。もし、成立するなら、木花咲耶姫、てなづち・あしなづち、稲田姫、大市姫、宇迦御魂、その他の神の話も全部嘘になるだろう。

 古風土記の編纂は元明天皇713年の勅命により行われたもので、少なくともそれ以後、数十年かかって完成したものと考えられている。しかも『出雲国風土記』以外のほとんどが、国司などが土地の役人や古老からの話を採録したり、自身の知見なども交えながら編纂されたものと考えられていて、そのすべての内容に関して、どこまで信用が置けるのかは定かでない。中には地名説話のように適当にこじつけられたものも多いのである。

 したがって、どちらの話が正しいのか、断定まではできないにしても、それらを総合的に考慮した場合『伊豫国風土記』の記事のほうに分がないことは明らかであろう。

 

 ところが、摂津の三島鴨神社(みしまかもじんじゃ)の由緒を見ると、次のようにある。

 創建:

仁徳天皇は河内の茨田(まんだ)の堤をおつくりになるとともに、 淀川鎮守の神として、百済(くだら)よりここ摂津の「御島」に、大山祇神(おおやまづみのかみ)をお迎えになりました。
「御島」とは淀川の「みしまえ(三島江)」にある川中島のことで、このあたりは淀川でもっとも神妙幽玄な景観をもっていました。

 このように書かれている。

     三島鴨神社の由来

 これを読むと、地元の摂津に古くから伝えられる信憑性のある歴史のようにも感じられ、神社の由緒が『伊豫国風土記』御嶋の記事を保証しているとも受け取れる文面になっているのである。

 それでも考えようによっては、これは順序が逆で、『伊豫国風土記逸文の記事を根拠にして、この由緒が作成されたと推測することも可能である。河内の茨田(まんだ)の堤の話はたしかに「仁徳記」にも書かれているので事実だろうが、淀川鎮守の神であるはずの大山祇神の話などは、ただの一行も出てこないのである。ものの見方というものは、それを考える側の視点や期待や、その人が調べた史料によっていくらでも変わってくる。

 

 そこで、その点に関しても、河野氏の来歴を記した『予章記』から少し詳述してみよう。

  役行者の名は少し年配の方ならたいていご存じだろう。役小角といえば修験道の開祖として知られる古代のスーパーマンである。が、その役行者が伊豆に配流になった際の逸話に関しても『予章記』の中では若干触れられている。

 文武天皇の御代に弟子の讒言(ざんげん)によって役行者流罪が決まった時のことだ(『続日本紀文武天皇3年(699)5月24日条に役小角を伊豆嶋に配流したとの記事がある)。そのとき小千直(おちのあたい)の子である小千玉興(おちたまおき)は朝廷(藤原宮か)に仕えていて、小角に過誤がないことを申し上げたところ、自らも同罪にされてしまった。行者の流罪が決まっても、まだ猶予期間があったものかどうか、共に摂津まで来て難波の辺りを流浪したとある。朝廷の勘気(かんき)をこうむったので、玉興は居所もなく、失意のうちに伊予へ帰ろうとしたのだと思われるが、次のように書かれている。

去る程に、玉興も行者も同途にて接(摂)州へ下給、難波辺流浪し玉ふ。昔は王命重き故、勅勘の人なとには舟借す人もなかりけれは、徒に徘徊せられたり。其より此処を三島江と云。さて、行者は何方へ行き玉ふへきやと問玉へは、伊与国に見島有、彼への便船を可尋宣もふ。伊与の見島は賀茂領也、行者は賀茂再誕也、其儀かと覚ゆ。其迄は接(摂)州中島はなくて此辺迄海岸なれは、常に唐船なとも着ぬ、故に唐崎と云。

             (伊予史談会双書『予章記』長福寺本より)

   *漢字以外の表記はカタカナですが、便宜上、ひらがなに換えさせて頂きました。

 ここには、それまでは三島江の辺りまでが海岸だったので、中島はなかったと書かれている。しかるに、三島鴨神社の由緒では、ないはずの川中島仁徳天皇の時代から神社が存在したように書かれているのだが、これはどうしたことだろうか。その時代から川中島と神社が存在した証拠でもあるのだろうか。もしもそれがなくて、『予章記』の記述が正しいなら、三島鴨神社の由緒は『伊豫国風土記逸文を基に後世に創作されたものと判断せざるを得ないと思う。

 さらには、河野氏の分流・正岡家(まさおかけ)の由緒を書いた『水里[そ]洄禄』という書には、同じ場面が次のように記されている。

難波の辺に牢浪し給ふ。昔は皇命最厳重にして、勅勘の人なとには船借(かす)人も莫りけり。此時、本国遙遠敬心正に疎を歎て、社壇を彼地に建立せられ、明暮勅免帰国の御祈怠なし。夫より此所を三島江と云。

           (伊予史談会双書『水里[そ]洄禄』より)

   *漢字以外の表記はカタカナですが、便宜上、ひらがなに換えさせて頂きました。

 そのとき小千玉興は難波のあたりに社壇を建立し、赦免と帰国を願って祈りつづけたと書かれ、その場所を三島江というとある。この社壇は、ほかの本には「霊祠」とも書かれている。
 つまり、この社壇が三島鴨神社の起源なのではないかとも考えられるのである。とすれば、三島鴨神社は小千玉興が同行していた役行者とともに建立した社祠になる。そのため三島鴨神社には、大山祇神と、役氏ゆかりの事代主が祀られているのではないか。役行者葛城鴨神社(かつらぎかもじんじゃ)に奉仕したからである。

 それなら摂津の御島と伊予の御島は当然ながら親密な関係と言えるが、伊予の大山積皇大神は何も摂津から勧請したのではなく、実はその逆だったとも考えられるだろう。大山祇神社境内にも事代主(ことしろぬし)を祀る葛城神社がある。その頃は伊予の見島(みしま)も賀茂御領だったらしいが、もしかしたらこの葛城神社は、そのときの役行者との因縁によるものかもしれない。

 とにかく、玉興にとっては生涯の苦境ともいうべきその際に、困った人を見捨てておけないと、船を出してくれたのが、越智玉積だったのである。玉興はそのときの恩を深く心に感じていたから、玉積を自分の後継者とし、すべてを譲り与えたのだろう。こうして、3人はようやくの思いで伊予に到着し、その後に役行者伊豆に配流になったと書かれている。

  『予章記』の話がどこまで真実を語っているかは知るよしもないが、この話からも、三島鴨神社の由緒が必ずしも正しいとは断言できないのである。

 また「記紀」の内容にも造作があるかもしれないが、仁徳天皇時代の渡来神日本の神代に登場させたりするのは、あまりにも時代が離れすぎていて、発想が突飛過ぎはしないか。誰が見ても嘘だと分かり、賢いやり方とはいえないだろう。いくら「記紀」に都合があるからといって、そんなやり方までするとは思えないし、わざわざ後世の渡来神を登場させる必然性などもないはずである。

 

 

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(つづく)