鄙乃里

地域から見た日本古代史

2019-01-01から1年間の記事一覧

9.大山積皇大神の面差(おもざし)

9.大山積皇大神の面差(おもざし) これまでの話を総括すると、大山積皇大神は神々が天地に分化する(伊弉諾・伊弉冉尊)以前の国土を統括する古い神であり、そのため面足・惶根尊(おもだる・かしこねのみこと)を理想の祖先神として奉祭しているのではな…

8.大山積皇大神の遷座

8.大山積皇大神の遷座 孝元天皇の御代に伊予国遠土宮に遷し祀られたとされる大山積皇大神と小千氏のその後の動向については、『三島宮御鎮座本縁』に以下のような話が箇条書きされている。 その後の動向として、まず、仲哀天皇の御代に、異国から塵輪(じ…

7.伊予二名洲と遠土宮

7.伊予二名洲と遠土宮 『三島宮御鎮座本縁』によると、孝霊天皇の御代に黒田廬戸宮(くろだのいおどのみや)で祀られていた大山積皇大神は、次の孝元天皇の時代に、孝霊天皇の三男・彦狭男命が神託に順(したが)って伊予国遠土宮(おどのみや)に祝い祀っ…

6.大山積皇大神と境内社

6.大山積皇大神と境内社 大山積皇大神名五ツアリト吾教給之依大己貴命ヲ桊社(ママ)ト定メ事代主神葛城号神社大市姫又御名南海龍女号祓殿本社勤行ノ前ニ祈祷相勤ルコト大切ノ秘傳アリ謹可勤行也…云々 先述した史料の続きになるが、しかし、史料には「大山…

5.大山祇神社と伊豆三島大社の関係(2)

5.大山祇神社と伊豆三島大社の関係(2) 大山祇神社と三嶋大社はともに大山積神を祀るが、これを歴史的に検証してみると、どちらも物部氏の祖先や吉備武彦の子孫らが鎮座地の国造になっていることと、何らかの関連がありそうな気がする。『予章記』流布本…

4.大山祇神社と伊豆三嶋大社の関係(1)

4.大山祇神社と伊豆三嶋大社の関係(1) 『三島宮御鎮座本縁』には、続けて次の文が記されている。 大山積皇大神名五ツアリト吾教給之依大己貴命ヲ桊社(ママ)ト定メ事代主神葛城号神社大市姫又御名南海龍女号祓殿本社勤行ノ前ニ祈祷相勤ルコト大切ノ秘傳…

3.大山積皇大神はなぜ面足・惶根尊なのか?

3.大山積皇大神はなぜ面足・惶根尊なのか? たしかに話の通りなら、神代七代(かみよななよ)のうちの5代までは面足・惶根尊(おもだる・かしこねのみこと)に集約されるのは間違いないだろう。また、天瓊矛(あめのぬぼこ)を授って天降り、国生み・神生…

2.三島宮の祭祀と遷宮

2.三島宮の祭祀と遷宮 三島の神の祭祀は、文武天皇の頃までは小市国造の子孫で伊予国守(いよこくしゅ)の小千(おち)氏が全て執り行っていたようである。「小千」は「小市」とも「乎知」とも記し、また「子致」とも書かれているが、「おち」の音にそれぞ…

1.大山祇神社の祭神

1.大山祇神社の祭神 神社の祭神には分かりにくいものが多い。表向きと実際の祭神が異なっていたりする場合もある。長い歴史の中でそうなったとしたら、それはそれで仕方ないだろうが、大山祇神社の祭神にも、そんな疑問点がないわけではない。 大山祇神社…

三島宮と今治市について

三島宮と今治市について 「三島宮(みしまのみや)」は、愛媛県今治市大三島に鎮座する大山祇神社(おおやまづみじんじゃ)のことである。 今治市は造船・今治タオルなどの製造業や漁業などの盛んな町で、名物の焼き鳥、B級グルメの焼豚玉子飯、ゆるキャラの…

天皇在位年の西暦表示について

天皇在位年の西暦表示について 歴史本や辞書などを買うと、天皇在位年の西暦表示が参考のために添えられていることがあります。しかし、そのうち古い時代のものは『日本書紀』の編年をもとに計算されたものですから、当然、実年代とは異なってきます。古い神…

金印余談

金印余談 志賀島の金印の由来や発見時の真相は分からないが、金印そのものについては、おそらく本物ではないかと考える。なぜなら金印の文字は、日本では『後漢書』などの内容を識っている学者や武士に依頼された彫工でしか彫れないはずの文字だからである。…

鄙乃里

~地域から見た日本古代史~ こんにちは!ひなもりです 現在のコンテンツ はじめに 『魏志倭人伝』の話 金印余談 天皇在位年の西暦表示について 『三島宮御鎮座本縁』に見える大山積神 大山祇神は女神かもしれない? ン? 大山祇神は事勝国勝長狭? 倭の五王…

『魏志倭人伝』の話

《 目 次 》 1. 魏の使者は邪馬台国まで何度来た? 2.『魏志倭人伝』の距離はどうなってる? 3. 邪馬台国までの行程と方角はどう考える? 4.「女王国」は、ほんとうに邪馬台国だけなのか?(1) 5.「女王国」は、ほんとうに邪馬台国だけなのか?(2)…

『魏志倭人伝』の話 まとめ

『魏志倭人伝』の話 まとめ 1.志賀島の金印は九州の奴国王のものではない。 畿内の倭奴国王に対して授与された金印紫綬である。 2.倭奴国とは欠史八代の国を指していう。 3. 後漢の安帝即位年に貢献した倭國王帥升等は、第6代孝安天皇のことである。 …

16.宗女・台与について

16.宗女・台与について 最後に卑弥呼の後継者・台与について簡単に触れておきたい。 『魏志』には、卑弥呼が死んだあと男王を立てたが国中が従わずに混乱した、そのためまた、卑弥呼の宗女で13歳の台与を立てて王にしたところ混乱は収束したと記されている…

15.倭奴国と欠史八代(2)

15.倭奴国と欠史八代(2) そのことは別の観点からも理解することが出来る。 『梁書』によると、倭国が乱れたのは、後漢の霊帝光和中(178~184)だという。霊帝は孝霊帝ともいい、その名に対応するのは孝霊天皇であろう。これらはみな淡海三船が各天皇の…

14.倭奴国と欠史八代(1)

14.倭奴国と欠史八代(1) 卑弥呼共立以後は倭(やまと)王権が倭連合の盟主となり、崇神天皇から日本武尊の時代にかけての草創期に、次第に日本国を形成していったものと考えられる。その倭国(やまとこく)の旧国であったと『旧唐書』に書かれている倭奴…

13.倭國王帥升等の朝貢

13.倭國王師升等の朝貢 建武中元二年に続いて、安帝の永初元年(107)にも、倭奴国王である「倭國王師升等」が後漢に朝貢している。この「倭國王師升等」は普通「わこくおうすいしょうとう(ら)」と読まれ、「師升(すいしょう)」は学者により伊都国あた…

12.倭奴国と倭(やまと)(2)

12.倭奴国と倭(やまと)(2) 『新唐書』に、 日本は乃ち小国にして、倭の併せる所と為る。故にその号を冒す。 とあり、邪馬台国が倭連合の盟主となったため、「やまと」に「倭」の字を当てたのだと思う。 中国でいう「倭」は日本列島の西のほうに住む人…

11.倭奴国と倭(やまと)(1)

11.倭奴国と倭(やまと)(1) つまり、この21カ国のうちの「奴国」の旧名が「倭奴国」なのではないかと思う。 『旧唐書』に「倭國者、古倭奴國也」=倭国は古(もと)倭奴国なり=の記述がある。 『旧唐書』の日本関係の記事は「倭国」の条と「日本」の条…

10.金印は九州奴国王のものではない(3)

10.志賀島の金印は九州の奴国王のものではない(3) 『後漢書』倭伝には、倭の使者に関して次の記事がある。 建武中元二年(57年)、倭奴國奉貢朝賀,使人自稱大夫,倭國之極南界 也。光武賜以印綬。安帝永初元年(107年)、倭國王師升等献生口百六十人、願請見…

9.金印は九州奴国王のものではない(2)

9.志賀島の金印は九州奴国王のものではない(2) 金印については「漢委奴国」を伊都国と読む説もあるが、『漢書地理志』にも「樂浪海中に倭人あり、分かれて百余国をなす」とあるように、中国には古くから東夷における「倭」の概念があり、「倭」を抜きにし…

8.金印は九州奴国王のものではない(1)

8.志賀島の金印は九州奴国王のものではない(1) 『魏志倭人伝』には末廬国・伊都国の次に奴国が書かれている。戸数は2万余戸。そして、江戸時代天明年間に発見されたと伝えられる「漢委奴国王」の金印が志賀島から出ている。したがって金印が本物で弥生…

7.その余の旁国ってどこのこと?

7.『魏志倭人伝』の、その余の旁国ってどこのこと? 『魏志倭人伝』には帯方郡から邪馬台国までの順路にある国々と狗奴国のほかに、その余の旁国21カ国というのがある。その余の旁国は、それらの順路から外れたところにある国々のことで、遠く離れていて詳…

6.卑弥呼の朝貢は景初何年?

6.卑弥呼が最初に朝貢したのは景初何年だっけ? 百衲本(ひゃくのうぼん)の『魏志倭人伝』では、最初の魏への朝貢を「景初2年6月」と書いているが、これは版の誤りと思われる。 『日本書紀』の引用文には「魏志云 明帝景初三年六月 倭女王遣大夫難斗米…

5.女王国は、邪馬台国だけ?(2)

5.『魏志』の「女王国」は、ほんとうに邪馬台国だけなのか?(2) 女王国は邪馬台国だけなのか? 女王国が邪馬台国だけだとしたら、「女王国の東へ海を渡ること千余里にまた国があってみな倭種である」とは、どの国を指すのだろうか。九州なら中国地方や…

4.女王国は、邪馬台国だけ?(1)

4.『魏志』の「女王国」は、ほんとうに邪馬台国だけなのか?(1) 『魏志』によると帯方郡から女王国までが1万2千余里。末廬国までがちょうど1万里なので、距離だけから考えると女王国は北部九州あたりに想定される。そして、その女王の都があるところ…

3.邪馬台国までの行程と方角はどう考える?

3.邪馬台国までの行程と方角はどう考える? 伊都国あたりから邪馬台国へ至る行程は、途中の投馬国(出雲国か)まで船で20日かかる。かかるといっても、日数と距離は比例しないかもしれない。昼間だけ航行して、雨や嵐が来れば海岸で休むし、天気がよければ…

2.『魏志倭人伝』の距離はどうなってる?

2.『魏志倭人伝』の距離はどうなってる? 帯方郡から倭の対北岸の狗邪韓国までの7千里は遠いが、狗邪韓国から対馬までが千里なら、たしかにその7倍ぐらいにはなるだろう。 『魏志』の計算が正しいとすると、女王国までは1万2千余里だから、距離だけから…