鄙乃里

地域から見た日本古代史

4.大山祇神社と伊豆三嶋大社の関係(1)

 4.大山祇神社と伊豆三嶋大社の関係(1)

  『三島宮御鎮座本縁』には、続けて次の文が記されている。

大山積皇大神名五ツアリト吾教給之依大己貴命ヲ桊社(ママ)ト定メ事代主神葛城号神社大市姫又御名南海龍女号祓殿本社勤行ノ前ニ祈祷相勤ルコト大切ノ秘傳アリ謹可勤行也…云々

 

大山積皇大神の名には5つがあると私に教えられた。これにより、大己貴命を総社と定め、事代主神を葛城神社と号し、大市姫またの御名・南海龍女を祓殿(はらえどの)と号している。本社勤行前に祈祷を相勤めることが大切だとの秘傳がある。謹んで勤行しないといけない。…云々。

 大山積皇大神の名には5つがあるとは、いったいどういう意味なのか。
  『古事記』によると、伊弉諾尊に斬られた軻遇突智(かぐつち)から生じた山津見神には8神があるが、『日本書紀』一書(第8)には5つの山祇(やまつみ)が書かれている。したがって、これらの5神の名を指してそう言っているのだろうか? それとも大山積皇大神亦の名(別名)が、全部で5つあるという意味なのか? 判然としないが、これを諸山積大明神(もろやまづみだいみょうじん)に当てている説もある。

 諸山積大明神は、大山祇神社では重要な祭神である。そのため、その正否はさておき、ここでは諸山積大明神について、少し説明をしておきたい。

 河野氏の秘説書である『水里玄義』(15世紀末に収録)に以下の一文がある。

家伝に云ふ。正一位諸山積大明神、十六王子の第一を浦戸御前といふ、伊豆三島の御事、本地薬師仏なり、
                 (伊予史談会双書 第5集「水里玄義」より)

 大山祇神社の境内には現在、十七神社を祀る社殿があり、これは神社周辺の小社や越智七島に祀られていた三島の末社16社の祭神を、正安4年(1302)になって一堂に集合させた建物のようであるが、その筆頭に別格として祀られているのが諸山積神社である。そのため全部で十七神社と呼ばれている。そして、その諸山積神社の祭神が先述の『日本書紀』一書(第8)に出てくる大山祇命・中山祇命・麓山祇命・正勝(まさか)山祇命・䨄(しぎ)山祇命になっている資料が存在している。

 それから河野氏には、自家の来歴を記した『予章記(よしょうき)』という家伝書もある。原本は1400年前後に完成したようである。伊予の守護大名河野氏は小市国造の子孫である小千(越智)氏の後裔を自認する武家で、源頼朝の時代には河野通信鎌倉幕府御家人だった。河野通信北条時政の娘婿にもなっている。その『予章記』の序章に次のような内容の話が書かれている。

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 その昔、孝霊天皇の第三子(『予章記』では彦狭島命)が鎮護国家のため伊予二名州にやって来た。これを伊予皇子という。そして当地の和気姫との間に三つ子が生まれ、それぞれを棚なし小舟で海原に放つと、最初の御子は伊豆の浦に漂着した。

  『予章記』長福寺本は次のように書いている。

嫡子の御舟は伊豆國に著く,彼の所に大宅有、爰御生長有、即大明神と現し給ふ、従一位諸山積大明神と申也。

                    (伊予史談会双書 第5集「『予章記』」より)

 そこで、御子を見た浦人は、これは常人の子ではないと話し合って大宅を作り、そこで養育されたため、御子の子孫は代々「大宅」を姓とするようになった。また、子孫が庵(いお)を並べて住んだ土地を、庵原(いおはら)と称したとのことで、静岡県には現在も庵原郡がある。そして、その御子は成長して神となったが、これを諸山積大明神という。即ち、それが伊豆三嶋大社の祭神だというのである。

 また『三島宮御鎮座本縁』に「三島の神(伊予の大山祇神社)は表に面足・惶根尊を立て、裏に諸山積大明神を立てる。したがって、諸山積大明神を浦戸の御前(うらどのごぜ)と称している」との記事がある。ここに言う御前とは神様のことだが、現在の大山祇神社の南方には実際に浦戸という土地があり、十七神社の諸山積神は、かつてその地に祀られていた。本書並びに『三島宮社記』にも、永万元年(1165)浦戸に諸山積神社が造営されたことが記されている。
 ほかにも、諸山積大明神に関しては『三島宮御鎮座本縁』に、光仁天皇宝亀10年(779)に「諸山積の神徳を伊豆国加茂郡に鎮め坐す…」との記事があるので、諸山積大明神が三嶋大社であるのは間違いない。この加茂郡はおそらく下田市白浜のほうの神社であろう。そこから三島市の現在地に遷座したと言われている。

 伊豆には三嶋大社があり、現在の所在地は静岡県三島市になるが、その社は当初はおそらく三宅島にあったと思われる。それから伊予の三島に里帰りし、また白浜に移り、さらに現在地に遷座したのかもしれない。第一の御子にはたくさんの児が出来たとされ、伊豆にはいわゆる伊豆七島をはじめとする諸島がある。それらの島々にはそれぞれの児神らが祀られているとの話もあるようだ。

 『予章記』や大山祇神社では、その神を諸山積大明神と称して「伊豆三島の御事(おんこと)也」としている。「諸山積」の名称から察すると、三嶋大社の祭神を筆頭に伊豆諸島の山積神を合体しているとも受け取れる神名だが、本地は阿閦如来また薬師如来と書かれている(昔は阿閦と薬師の一体説があったものか?)ので、諸山積大明神は一柱の神と認識されているのかもしれない。この場合「諸(もろ)」は「諸(しょ)」であるから「山」を「島」と変えれば、伊豆諸島を治める神、伊豆諸島の守護神という意味になる。伊豆諸島はフィリピン海プレートと太平洋プレートの狭間にある火山列島なので、島は即ち火山そのものと考えてもいいはずだ。火山から生まれたのが、山祇神なのである。

 三嶋大社には、あとから事代主神も祀られているが、それは江戸時代の学派が言い出したもので、『伊豫国風土記逸文摂津の御島と書いてあることや、昔は伊予の越智郡も伊豆の加茂郡も共に賀茂御領であったことから、摂津の三島鴨神社事代主神)が伊予に勧請されたと推測し、伊予が事代主神なら当然、伊豆も事代主神だろうと考えたのかもしれない。大山祇神社境内にも事代主神を祀る葛城神があり、摂津の神とも無関係ではないが、それは境内摂社であっても本社の主祭神ではない。伊予の三島は今は記紀神話に従って大山積命としているが、本来の主祭神大山積皇大神(面足・惶根尊)と明確に書かれてあり、伊豆の三島の主祭神も、本来は伊豆諸島の開拓神とされる、この諸山積大明神だったはずである。先述のように、その子孫は「大宅」の姓を名乗ったとされている。事代主神の子孫が「大宅」を名乗るなどあるだろうか。 

 それから、その三子のうちの第二の御子が吉備の児島(現在の岡山県児島半島。昔は島だったらしい)に着き、三宅氏・児島氏の祖となる。最後の第三の御子が当国(伊予)の三津の浦和気郡三津、現在は松山市のうち)に漂着した。すなわち、その御子が大山祇神社大祝家や越智氏の遠祖にあたる小千命(おちのみこと)であるとしているから、伊予の大三島と伊豆の三島は、『予章記』の伝承では、このようなつながりがある。大山祇神社が諸山積大明神を「浦戸の御前」と重視するのもこのためであろう。

 『予章記』の冒頭は神話のような茫洋とした話ではあるが、これはおそらく歴史の神話化であり、その裏には古代において何らかの現実的な関係性があったものと思われる。

 

    *『予章記』の仮名は本文はカタカナですが、ひらがなに変更させて頂きました。

    *写真は大山祇神社の本社と左右の摂社で、社殿の裏側から撮ったものです。

 

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(つづく)