鄙乃里

地域から見た日本古代史

『魏志倭人伝』の話 まとめ

  魏志倭人伝』の話 まとめ

  1.志賀島の金印は九州の奴国王のものではない。

    畿内倭奴国に対して授与された金印紫綬である。

 

  2.倭奴国とは欠史八代の国を指していう。

 

  3. 後漢の安帝即位年に貢献した倭國王帥升等は、第6代孝安天皇のことである。

 

  4. 卑弥呼共立以前の「男王」とは孝安天皇孝霊天皇のことをいう。

    それ以前にも当然ながら倭奴王は存在するが、『魏志倭人伝』の年数7,80年

    は、 107年の朝貢年を基点として記されていると考える。

 

  5.女王卑弥呼から洛陽への最初の遣使は、景初3年(239)の冬である。

    その際の魏の皇帝は少帝であり、明帝ではない。

    「百衲本」の 「景初2年」の記事は、『魏志』の誤りというより、版の誤り

    ろうと思う。

 

  6.景初4年銘の魏鏡は、景初3年の後の12月の制作品と考える。

    鏡の記銘は鏡作りの吉祥日(5月丙午)であろう。

 

  7.『魏志倭人伝』の記事は、時代の異なる種々の情報を一堂に集めて編纂されて

    いる。したがって、逐語的な解釈たけでは矛盾が生じるのは当然であり、多角

    的・総合的な判断も必要である。

 

  8.『魏志倭人伝』のいう女王国と邪馬台国同じ場所を指していない邪馬台国

    は卑弥呼のいる女王の都である。

 

  9. 九州にも女王国が存在した(?)

 

  10.各国に至る方角の誤りは投馬国や邪馬台国だけの問題ではない。伊都国・奴

     国・不弥国からしすべておかしいのであり、その点は九州を右に90度回せ

     ばだいたい修正される。だから、本州も90度回せばいいのである。

 

  11.『魏志倭人伝』の邪馬台国は、畿内の「やまと」である。

 

  12.女王卑弥呼は、『日本書紀』の倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)で

    ある。百余国により共立されたので「百襲姫」と呼ぶ。「百」たくさんの

    国。襲は歌舞伎の「襲名」などと同様、家督名跡引き継ぐこと

 

  13.卑弥呼の「男弟」とは五十狭芹彦命彦狭島命だろう

    彦狭島命は『魏志倭人伝』の難升米(なしま)ではないかと思われ、魏の皇帝

    から銀印・青綬をもらったと考える。

 

  14.遣使の伊声耆も五十狭芹彦命、掖邪狗は伊豫彦などを指すか(?)

    烏越は大彦かもしれない。

 

  15.卑弥呼の宗女・台与は豊鍬入姫(とよすきいりひめ)のこと。

    「宗女」は、一族の首長崇神天皇の娘をいう。イヨは誤読。

 

  16.其の余の傍国は、九州より東の国々。きっちり21カ国とは限らない。

 

  17.邪馬台国への行路は瀬戸内海航路ではなく、日本海側の北回りである。投馬国

    は出雲国のこと。

 

  18.郡の使者の張政らが邪馬台国に到着したときには、卑弥呼はすでになくなって

    いて、塚造りの最中だった。『日本書紀』にも同様記事があるが、年代は西暦

    248年のことだろう。

 

  19.狗奴国は、毛の国か熊国と思われるが、熊襲とはずっと仲がわるいので、ど

    ちらかといえば熊(隈、球磨)国。

 

  20.狗奴国王「卑弥弓呼」とは、根子彦(ねこひこ)のことか(?)

 

  21.卑弥呼の墓は、箸墓古墳から大型銅鏡(三角縁神獣鏡)・五尺刀・金印などが

    見つかると、そうかもしれない。

 

(『魏志倭人伝』の話 おわり)