8.大山積皇大神の遷座
孝元天皇の御代に伊予国遠土宮に遷し祀られたとされる大山積皇大神と小千氏のその後の動向については、『三島宮御鎮座本縁』に以下のような話が箇条書きされている。
その後の動向として、まず、仲哀天皇の御代に、異国から塵輪(じんりん)が穴門の豊浦宮(下関市長府の忌宮神社に比定される)へ攻め寄せてきたので、小千三並(おちみなみ)が大山積皇大神と御鉾神を遠土宮から安芸の霧島(厳島、宮島)へ遷した。
その霧島宮が厳島の大元神社であり、厳島は三島の摂社七島の中(うち)に入ると記している。
これは『三島宮御鎮座本縁』に書かれている伝承ではあるが、現在、厳島神社の境外摂社になっている大元神社の祭神の一座は、実際に大山積神である。大山積皇大神は、その後もまだ国情が定まらず外敵侵入の恐れが残るとして、そのまま霧島に鎮座していたらしく、仁徳天皇の時代に安芸の霧島から大三島の鼻繰瀬戸(はなぐりせと)に帰座したと書かれている。その霧島宮の跡を大元神社と名付けたと上記にある。
厳島神社の由緒によると、厳島神社の創建は推古天皇の即位年(593年)で、摂社の大元神社はすでに存在していたと伝えているので、実際の創建年は不詳だとしても、伝承通りなら、仁徳天皇の時代から593年までの間になるだろう。しかも、その起源をたどれば仲哀天皇時代の、この霧島の宮への遷座に始まっているようなのである。
[参照]境外摂末社 嚴島神社【公式サイト】国宝・世界文化遺産
続いて、敏達天皇の御代(諸説あり)には小市益躬(おちますみ)が夷狄の鉄人を播磨の大倉谷で誅殺したので、その地に大山積皇大神を鎮座する(兵庫県明石市大蔵本町)。
[参照]稲爪神社(オフィシャルサイト)
その後、崇峻天皇の御代に神託により、小千益躬が播磨から鼻繰瀬戸島(大三島)または木下濱宮(今治市鳥生)へ大神を戻し、木の枝に鏡を掛けて祀った(神域はあっても、まだ祭殿はなかったものか)。さらに推古天皇の御代に、その瀬戸浦に横殿(余古殿)を造営して祀ったと記されている。
それから文武天皇の勅命により、大宝元年(701)から霊亀2年(716)まで16年をかけて、島の北西の邊礒之濱(宮浦)に新たに宮を造営。養老3年(719)4月22日、越智玉澄の子で大祝に任じられた安元(やすもと)が正遷宮の儀式を執り行った。これが現在の大山祇神社の宮地だとされる。
- 大山積皇大神の移動先(『三島宮御鎮座本縁』)
孝霊天皇の黒田の庵戸宮→
伊予国の遠土宮(風早の国津比古命神社か)→霧島宮(厳島の大元神社)→鼻繰瀬戸島(大三島瀬戸浦)→稲爪神社(兵庫県明石市)→鼻繰瀬戸島(大三島瀬戸浦)と木下濱宮(今治市鳥生)の二説が書かれている→鼻繰瀬戸島(大三島瀬戸浦)の横殿(余古殿)→邊磯之濱(宮浦)の現在地
文武天皇の勅命による遷宮の際には、予定地に悪神(『三島宮社記』では大蛇)がいて災いをなしたので、越智玉澄が安地山(安神山)山頂に五龍王を鎮座し、大蛇を追い出し、自ら矢を放って矢が落ちたところに宮を建てたという。その大蛇が逃げて飛び去ったところが蛇島(よこしま、横島のことか?)で、大蛇の尻尾を切ったときに尾が向地まで飛んでいき、尾道になったというもので、このときに、何らかの地主神が入れ替えられた可能性があるかもしれない。
*写真、向かっていちばん右の山が安地山
(つづく)