鄙乃里

地域から見た日本古代史

9.大山積皇大神の面差(おもざし)

9.大山積皇大神の面差(おもざし)

 これまでの話を総括すると、大山積皇大神は神々が天地に分化する(伊弉諾伊弉冉尊)以前の国土を統括する古い神であり、そのため面足・惶根尊(おもだる・かしこねのみこと)を理想の祖先神として奉祭しているのではないかと解釈することも可能である。

 記紀神話の側からいえば、天照皇大神の兄神とか皇室の外戚瓊瓊杵尊の義父)とかいわれることもあるが、その一方で境内に出雲系の神社が目立つのは、やはり古くから鎮護国家のための神としてのポリシーを保ち続けてきたせいかもしれない。そのため、現在も神社の神額に「日本総鎮守」を掲げているのではないかと思われる。この神額は日本三蹟の一人とされる藤原佐理(ふじわらのすけまさ)が舟板に書いて奉納したものである。

  『三島宮御鎮座本縁』や『予章記』によると、国家鎮護を第一とする大山祇神社の理念に基づき、小市(越智)氏・河野氏もまた時代時代にそれぞれの武将が一身をかけてその役割を果たしてきたように見える。越智郡は瀬戸内海の要衝に位置し、かつ水軍を擁していたため、いつの時代にも中央の権力争いの渦中に巻き込まれる不運が多かったが、国や朝廷の存亡がかかる国難のときに率先して武将を送り、挺身してこれを防いできたとの自負が窺える。

・一部は以前の記事とも重複するが、仲哀天皇の御代には異国の塵輪(じんりん)という恐ろしい将が穴門の豊浦宮へ攻め寄せてきたので、小市三並が大山積皇大神と御鉾神を押し立てて安芸の霧島に遷し、自身は豊浦宮に押し渡って、仲哀天皇等と共にこれを討ち滅ぼした。その後の神功皇后新羅遠征にも大将のひとりとして参加している。

敏達天皇から推古天皇の御代には夷狄の不死身の鉄人が大将となって筑紫から攻め上ってきて、朝廷方の兵は打ち負かされ、誰も止めることが出来なかった。そこで小市益躬(おちますみ)は降伏したふりをして家来になり、明石の大蔵谷というところまで来たときに大山積皇大神の助けを借り、鉄人の弱点であるかかとを矢で突いて誅殺した。そのため大将を失った鉄人の家来は自殺したり、斬られたり、捕虜にされたりしたという。益躬自身の兵も多く失われたが、これにより国と朝廷を護ったという。また、そのときの部下を弔うため今治東禅寺を開山したと伝えられている。東禅寺の由緒では寺の開創を推古10年としている。

聖武天皇の御代には筑紫で藤原広嗣(ふじわらひろつぐ)の乱(740)が起こり、朝廷の宣旨を受けて越智玉澄等も鎮圧に出向いている。

藤原純友の乱(940)には、越智好方(おちよしかた)が宣旨を受けて300余艘の兵船を九州に送り、部下により純友を討ち取った。中央の歴史によると、通常は小野好古源経基により平定されたとなっているが、『予章記』にはこのように書かれている。

・また元寇弘安の役(1281)には鎌倉幕府の命を受けた河野通有(こうのみちあり)が築地(防塁)の前の海側に陣取り(河野の後築地という)、博多湾の敵船に乗り込んで敵将を捕虜にするなど身命を顧みず大功を立てた。活躍は『八幡愚童訓』などに書かれている。その際、通有は出陣に先立って氏神大山祇神社に参詣。拝殿前の大楠に兜を掛けて、起請文を書き、焼いた灰を飲み込んで神に祈願したという。その大楠が枯れてはいるが河野通有兜かけの楠」として現在も境内に残っている。しかし、通有はこの出陣で伯父を失ったので、自邸を寺として、敵・味方の将兵を弔ったという。

 [参照]ハイテック

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◆臨済宗妙心寺派 東海山長福寺┃歴史◆

 

 

 ほかにも斉明・天智天皇百済救援戦争に出兵して捕虜になった小千守興(おちもりおき。『日本霊異記』に載るところの小千直)など、危機に当たり困難な戦いを引き受けているが、これらはほとんど国史には載せられていないとのことである。

 もちろん河野氏の『予章記』などは、武家であるから自家の名誉を高めるために誇張されている部分もあるかとは思うが、このように、国難にあたり進んで将を送り、国と朝廷守護のために戦っている。

f:id:verdawings:20190727164238j:plain その後の武家社会においても鎮護国家の志から、宮方武家の要請にたびたび応えている。双方に別れて、時にはやむなく一族で合戦することもあり、そのため多くの宗主や一族を失い、後には後嗣にも事欠く有様になった。一方で他領への侵略は一切行わなかった。そうした理由から戦国大名には転向出来ずに羽柴秀吉の四国攻めのあと河野家は断絶してしまうのである。そのことは「日本総鎮守」の神額のとおり、国土の平安を護ることが大山積皇大神の役割だと、各時代の小千氏(越智氏)が強く認識していた結果でもあるに相違ない。その信仰と志河野氏らも受け継いだのであろう。

 天照皇大神皇室の氏神だが、大山積皇大神は、氏子や当時の信奉者にとっては、日本国土の守護神と考えられていたようだ。昔から水軍の守り神であり、そのため武将からも武神扱いされて、八幡神とともに多くの尊崇を集めるようになっていった。たぶん、そうした歴史の経緯から、戦前の軍国主義の協力者のように誤解を受ける一面もあったかもしれない。

 しかし他方では航海安全、五穀豊穣などを祈願する産須奈大祭や、御田植祭抜穂祭、豊作を占う一人角力など、農業や航行の安全、祈雨といった人々の生活に密着した伝統行事が神事として受け継がれてきたのも事実であり、そうした身近な行事は島民や県民の間で広く親しまれている。そのように三島の神は本来は島国に相応しく、山や海、農業や鉱業などを掌る神であるとされている。現在においても、広く・厚く全国各地で信奉され続けているゆえんであろう。

 大三島は参拝目的のほかにも大きな宝物館があり、昔から、各地からの観光客が多数訪れていた。
 その頃は瀬戸内海を汽船で宮浦港まで渡っていたが、20年ほど前に西瀬戸自動車道しまなみ海道全線がほぼ開通してからは、今治からでも尾道からでも、陸続きで簡単に行けるようになった。本四架橋で唯一の自転車(歩行者・バイク)専用道路が併設されていて、レンタル自転車で島巡りをしたり、今治尾道間を自由に往来できるため、海外からも愛好者が訪れるなど、最近はサイクリングの聖地としても発展つつある。地域の過疎化とは反対に、大三島には移住者が増えてきているようであり、珍しく活気が感じられる島として独自の進化が期待されている。
 それでもやはり、その中心には日本総鎮守で国宝・重文の宝庫ともされる大山祇神社の存在が重要であり、その点は、今も昔も変わりがないように思う。
 国土の安泰を守り、地域に恵みをもたらす、それが大山積皇大神の本来の面差しであろう。

 

  *写真は長福寺境内と本堂。河野通有の邸宅跡という。

  *画像は、藤原佐理の本物の奉納額スケッチ(実際の字はもうちょっとだけうまいですが)

 

 

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(おわり)