16.宗女・台与について
最後に卑弥呼の後継者・台与について簡単に触れておきたい。
『魏志』には、卑弥呼が死んだあと男王を立てたが国中が従わずに混乱した、そのためまた、卑弥呼の宗女で13歳の台与を立てて王にしたところ混乱は収束したと記されている。
卑弥呼の宗女とは、卑弥呼の一族の首長の娘のことである。『日本書紀』によると、魏に貢献した卑弥呼と考えられる「百襲姫」の時代の首長は崇神天皇であり、その娘は、豊鋤入姫である。したがって、必然的に台与は豊鋤入姫になる。『魏志』では「豊(とよ)」の音に「台与」の字を当てたのであろう。したがって「邪馬台国」も、読みは「やまとこく」でなければならないと思う。
台与は幼少にして衆望があったと一書にも書かれているが、それは早くから笠縫(かさぬい)の邑(むら)で天照大神を託されて成長したためであろうか。それだけ周囲から属目されていた少女だったのかもしれない。豊鋤入姫は天照大神の斎王(さいおう)として生涯を捧げたようだが、その役割は次代の倭姫に引き継がれ、これらの斎王に託されていた日神は、最終的には伊勢の宮に鎮座したのである。
百襲姫 → 豊鋤入姫 → 倭姫
百襲姫は鬼道をよくして衆を惹きつけ、三輪山の神を奉じて国をまとめたようである。豊鋤入姫は幼くして天照大神を託され、人々の信望を集めて民心に応えた。倭姫は日神の御杖代(みつえしろ)として、さすらいの労苦のはてに、伊勢の地にたどり着いた。これらの古代における斎王(さいおう)の系譜をもって、『魏志』の視点では「女王」と称しているのではないだろうか。
その意味で『魏志倭人伝』の記述は、古代における男系社会の抗争と収拾のつかない混乱の中で、神秘的で呪術的な権威を持つ巫女の統率力が国の安定のためにいかに大きな役割を果たしてきたかを物語る、歴史的な証言ともいえるだろう。
おわりに、日本の歴史書には邪馬台国や卑弥呼は登場しないとよく言われる。しかし、それは漢籍の文字だけを一方的に鵜呑みにした結果ではないだろうか。一見、学問的に誠実な姿勢のようにも感じられるが、歴史の解明には何ら役立っていないと思われるのである。
(つづく)