15.倭奴国と欠史八代(2)
そのことは別の観点からも理解することが出来る。
『梁書』によると、倭国が乱れたのは、後漢の霊帝光和中(178~184)だという。霊帝は孝霊帝ともいい、その名に対応するのは孝霊天皇であろう。これらはみな淡海三船が各天皇の特徴や時代をよく考えて名付けた漢風の諡号である。
大山祇神社の古文書『三島宮御鎮座本縁』ほかによると、孝霊天皇の時代は大変な時代で、寒暑が定まらず、五穀は実らず、人々が愁え、みな叛いていた。後漢の霊帝の時代もまさしくそのような時代であり、『三国史記』などを見ても、この時代、極東一帯が大飢饉であったように窺える。その中で、倭国に乱が続いて誰も統率できなかったのであり、そのため卑弥呼が共立されたと中国の各史書が記している。
霊帝の光和の年代(178~184)から推定して、卑弥呼共立の時期を180年頃と仮定してみよう。そうして孝霊天皇の時代に鬼道を事とする女子を求めてみると、『日本書紀』からは百襲姫しかいない。倭はもとは百余国であったというが、「百襲」の意味は「百余国を統率した」の意味にも解釈できる。卑弥呼の銅鏡も百枚贈られている。卑弥呼以前は男王で、『魏志』によるとその期間は7,80年と書かれているから、卑弥呼共立の180年頃から7,80年を引いてみるとよい。安帝の永初元年(107年)になるのではないか。百襲姫の親は孝霊天皇であり、その前は孝安天皇。つまり孝安天皇が倭國王師升等になるはずである。
建武中元二年(57)………永初元年(107)……………光和((178~184)
(光武帝) (安帝) (霊帝)
← ← ← ← ← ← ← ←【倭奴国(欠史八代)】→│ → → → → 百襲姫 → 豊鋤入姫 → 倭姫
│ ←【倭国(やまとこく)→
崇神天皇 …豊鋤入姫(天照大神斎王)
これらをもってしても、『後漢書』の倭奴国が九州の国でないことは明々白々だろう。
倭連合の女王卑弥呼が共立された後漢の霊帝時代以前の倭奴国の王権基盤はまだ不安定であったにしても、生口(奴碑)160人も貢献できるのは、やはり諸国の王の上に立つ、中央の大王クラスしかいないということは、当然ながら考慮すべきであろう。女王卑弥呼ですら生口10人しか貢献していないのである。
(つづく)