鄙乃里

地域から見た日本古代史

3.大山積皇大神はなぜ面足・惶根尊なのか?

 3.大山積皇大神はなぜ面足・惶根尊なのか?

 たしかに話の通りなら、神代七代(かみよななよ)のうちの5代までは面足・惶根尊(おもだる・かしこねのみこと)に集約されるのは間違いないだろう。また、天瓊矛(あめのぬぼこ)を授って天降り、国生み・神生みを行った伊弉諾伊弉冉尊2柱は、面足・惶根尊の次の尊なので、こちらも面足・惶根尊に集約されるというのも、何となく理解できなくはない。しかし不明なのは、大山祇神社(三島宮)が、なぜ面足・惶根尊を祀り、しかもそれを、大山積皇大神の名で祀るのかということである。

 その点について少し考えてみると、記紀伊弉諾尊軻遇突智(かぐつち)を斬ったときに生まれたのがいろいろな山祇(山津見)たちであるとしているが、それとは別に『古事記』の大山津見神伊弉諾伊弉冉尊両神の子であり、伊弉冉尊から生まれたためか「国つ神」とされている。一方で天照大御神両神から生まれたとの書もあるが、伊弉諾命一柱の禊ぎから生まれ、高天原を治めたので「天つ神」とされている。それでも大山祇神社などでは、大山積神天照皇大神の兄神だといっているのだから、「国つ神」と「天つ神」はどこがどう違うのか、神話の世界は気ままでのんびりしている。

f:id:verdawings:20190704163455j:plain しかし記紀によると、「国つ神」とされた大山積神は、このあと天孫である瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)に自分の女(むすめ)木花咲耶姫と磐長姫を娶(めあわ)せている。他方『古事記』によると、須佐之男命に神大市姫(かむおおいちひめ)を、そして須佐之男命と櫛名田姫の子である・八島士奴美神(やしまじぬみのかみ)にも木花知流比売(このはなちるひめ)を娶せている。
 つまり、高天原族と出雲族の両方に自分の女(むすめ)を娶せていて、どちらかに偏向などはしていないようである。つまり大山積神からみれば、高天原族も出雲族も、天神も地祇も関係なかったように見える。先の伝承によれば、神々が天神地祇(てんじんちき)に岐れたのは、天瓊矛を持ち来たった伊弉諾伊弉冉尊特別な行動によるものだからであろう。

 そのため天神地祇がまだ未分化だった面足・惶根尊の時代をよしとして、大山積皇大神の名で、この両神を祀ったのかとも思わせる。面足・惶根尊に神代七代が集約されているとは、そういう意味なのではないかと? そこに「日本総鎮守」を掲げる大山祇神社の真面目が存在したのかとも推測され得る文面である。伝承の冒頭に「天照大神と大山積皇大神を祀ることが大切だ」と強調しているのも、その意味ではないのだろうか。

 「天照太神(ママ)とともに大山積皇大神を祀れば天下がよく治まる」という話は、孝霊天皇の御代において、国つ神の子孫の中には現状に不満を抱く者が多かったからだろう。この孝霊天皇の時代は『魏志』などに記されている倭国大乱」の時代に当たるようである。

 それと類似したような話で、崇神天皇の御代には天照大神倭大国魂神(やまとおおくにたまのかみ)を共に宮殿内に祀っていたが、その威力が強いのを恐れて、ほかへ祀ったと『日本書紀』に書かれている。これも出雲族など国つ神系の子孫の不満と勢いが強かったことを物語るエピソードの一つなのではないだろうか。

  *写真は大山祇神社の神門

 

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(つづく)