鄙乃里

地域から見た日本古代史

2.三島宮の祭祀と遷宮

 2.三島宮の祭祀と遷宮

 三島の神の祭祀は、文武天皇の頃までは小市国造の子孫で伊予国守(いよこくしゅ)の小千(おち)氏が全て執り行っていたようである。「小千」は「小市」とも「乎知」とも記し、また「子致」とも書かれているが、「おち」の音にそれぞれの文字を当てただけなのか、越智氏の出自とされる「小市」と「小千」の関係から、そうなったものかと推測される。

 小千氏は後に「越智氏」とも記され、愛媛県では地元の歴史に多少なりとも関心のある人なら、知らない人はいない豪族名である。しかし文武天皇の時代に小市国造の末裔に当たる小千(越智)玉興(おちたまおき)の後継者となった越智玉澄(おちたまずみ)は、この時期に伊予国守の祭政分離を図り、職権を専門化させて、子孫に役割を分担させたといわれている。

 そのときの玉澄には少なくても2男子があったようであり、長男の益男(ますお)が周敷(すふ)郡の大領となり、二男の安元(やすもと)和銅元年(708)に初代の三島大祝(おおはふり)に補任されたことが本書に記されている。

  以下の文章は、三島宮を大三島東側の上浦町瀬戸浦(横殿)から、西側の宮浦の現在地遷座させた(大宝元年から霊亀2年まで16年をかけて社を造営し、養老3年=西暦719年に正遷宮の儀式が執り行われた)頃の話ではないかと推察されるが、玉澄とその二男である初代大祝・安元の間で次のようなやりとりがあったことが、伝承として載せられている。

傳曰玉澄安元問曰大山積命伊弉諾尊生給神ナルニ何故ニ面足惶根命ヲ祭給ゾ玉澄曰吾是ヲ玉奥ニ聞ケリ天地開闢國常立尊ヨリ大苫邊尊迄五代ノ御神ハ面足惶根尊此二柱教給道也亦伊弉諾伊弉冉尊二柱ハ天ヨリ天瓊矛授リ給天降給御名天下住給フニヨリ天神七代面足惶根尊ニ縮ル依テ以孝霊天皇大己貴神教給

 

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伝えるところによると、玉澄に安元が(または玉澄が安元にか?)尋ねたことがあった。
大山積命は伊弉諾尊がお生みになられた神なのに、なぜ面足・惶根尊を祭られるのか?と…。
玉澄が云うには、私はこれを玉奥(たまおき)から聞いたのであるが、天地開闢の初め国常立尊(くにのとこたちのみこと)から大苫邊尊(おおとまべのみこと)迄の5代の御神は面足・惶根尊二柱が教えられた道である。また、伊弉諾伊弉冉尊二柱は天から天瓊矛(あめのぬぼこ)をお授りになって天降られ、その御名が天下に住(とど)まられたことから、天神七代は面足・惶根尊に集約される。そのため孝霊天皇大己貴神が教えられたのである。

 このように書かれているが、この記事の内容はいったいどういう意なのだろうか。

    * 写真は2010年に復元された新しい総門

 

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 (つづく)