鄙乃里

地域から見た日本古代史

13.倭國王帥升等の朝貢

 13.倭國王師升等の朝貢

 建武中元二年に続いて、安帝の永初元年(107)にも、倭奴国王である「倭國王師升等」後漢朝貢している。この「倭國王師升等」は普通「わこくおうすいしょうとう(ら)」と読まれ、「師升(すいしょう)」は学者により伊都国あたりの王にされて、教科書にまで書かれてしまっているのだが、それは間違いである。
 おそらく「わこくおししと」と読むのが正解だろう。『日本書紀』では「やまとたらしひこくにおしひと」となっている、第6代孝安天皇のことである。後漢の安帝(孝安帝)の時代に合わせて「やまとたらしひこくにおしひと」に孝安天皇という漢風名を諡(おく)ったのは淡海三船かと思われるが、次の第7代孝霊天皇後漢霊帝の時代に合わせてあり、霊帝の諡(おくりな)も「孝霊帝」となっている。その第7代孝霊天皇の娘が諸国に共立されて三輪山山麓に都を作ったのであり、それがすなわち、女王卑弥呼(百襲姫)の邪馬台国なのである。
 この孝霊天皇の時代は「倭國大乱」と呼ばれ国中が大いに乱れたようで、そのため諸国が鬼道(占いや、神かがりなどのシャーマニズム)に仕えて人々の心を惹きつける卑弥呼を倭連合の女王として共立したのであり、それが三輪山麓の倭(やまと)王権の成立に繋がっている。即ち、崇神天皇から垂仁天皇景行天皇3代の都がある、現在の纏向遺跡であろう。

 

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(つづく)