鄙乃里

地域から見た日本古代史

12.倭奴国と倭(やまと)(2)

 12.倭奴国と倭(やまと)(2)

 『新唐書』に、

  日本は乃ち小国にして、倭の併せる所と為る。故にその号を冒す。

とあり、邪馬台国が倭連合の盟主となったため、「やまと」に「倭」の字を当てたのだと思う。

 中国でいう「倭」は日本列島の西のほうに住む人々や国々のことであり、倭連合全体のことを「倭國」とも称しているが、後に国内では卑弥呼の都「邪馬台国(やまとこく)」のことも「倭」と書いて「やまと」というようになった。また「邪馬台国」が倭連合の盟主となり、国々を統率したので、他の小国と区別するため「大倭(おおやまと)」とも称したのだろう。

 しかし7世紀の百済救援戦争に失敗してからは、朝鮮半島の経営を完全にあきらめ、唐の律令制度を手本に、天皇を中心とした中央集権的国家建設への道をひたすら歩んだ。それは夷狄進入の危機感が増大していた時代であり、その点は明治維新でも同じことだが、その過程において国外向け国号を「倭」から「日本」に改称したようである。「日出ずるところの国」だからというのが、その主たる理由のように記されている。それでも訓(よみ)のほうは、まだ「やまと」のままだったのかもしれない…。

 『後漢書』には、倭奴国は「倭國之極南界也」と明確に記述されている。『魏志倭人伝』の方角觀や南に延びた歴史地図からみて、この「極南界」の倭奴国が、博多湾岸の奴国ではなく、もうひとつの奴国を指していることは明白だと思う。逆に言えば、博多湾岸の奴国が「倭国の極南界」ということはあり得ないということである。

 とはいえ、博多湾岸の奴国も、極南界の奴国の分国であった可能性はある。後代の仲哀天皇の時代に香椎宮が見え、宣化天皇の時代に博多大津に宮家が置かれ、斉明・天智天皇の時代にも那珂津宮(長津宮)が登場することから推察して、この両国に関連性があった可能性は窺える。

 しかし志賀島の金印が、西暦57年に後漢光武帝から授与された印綬だったと仮定した場合、「漢委奴国王」の金印は、博多湾岸の奴国王のものではなく、畿内に在位した倭奴国に授与されたものだったと自分は考える。この倭奴国の王権を、葛城王朝と称する人もいるようだが、年代からみると、その葛城王朝の第4代(懿徳)天皇あたりに贈られた金印ではなかったかと想像されよう。

 

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(つづく)