鄙乃里

地域から見た日本古代史

伊豫西條藩の一柳氏 ① 宣高

 伊豫西條藩について

 伊豫西條藩は、寛文10年(1670)に紀州連枝の松平頼純が入部して以来、約200年間を松平氏が治めて明治に至った。西條の松平氏は小藩ながらも定府大名であったから、その間、御留守居役の家老はもとより奉行・藩士らだけでなく、町役人・村役人・百姓・町民も一致協力して、今日につながる西條の町を徐々に整備拡張しながら、明治へとつないできたのだろう。

 しかし、松平氏以前に西條の城下町の基礎を築いたのは、一柳氏であった。そのまた以前にも古代の別君から越智氏・新居氏・河野氏細川氏、石川氏、豊臣時代の諸大名や徳川時代松山藩主らが代わる代わる所領としていたが、独立した伊予西條藩を最初に開拓したのは一柳氏である。その時代はわずか30年ほどだったが、西條藩陣屋を中心に城下町の中核を造り上げている。

 そこで、今回は西条市とのゆかりが深い一柳氏について、しばらく略記してみたい。


  

 河野氏の読みについて

 一柳氏は河野氏の出である。
 そのため、
まず「河野」の名字の読みについて若干触れておきたい。

 この「河野氏」の読みは、いくつかの中央の史料から判じて川野(かわの)と読むのが正解のようにウィキには書かれていたが、伊予で「河野」を「かわの」と読む人は誰もいない。

 川野に変換すれば「かわの」と読むが、「汝以彼可予里、余ルニ此一語ヲ合スレバ河野の二字ヲ探リ得タリ。と『予章記』(上蔵院本)の由来にもあるように、本来の名字が「河野」であり、高縄山(たかなわさん)のある風早郡河野郷(こうのごう)を本拠としている。*風早郡は合併により現在は松山市

 「河」を「か」「が」「かわ」「がわ」と読むのは当然だが、古来 「河」は「こ」「ご」「こう」「ごう」とも読んだようであり、河口(こうぐち)、面河渓(おもごけい)、十河信二河野一郎…等々。ウィキが史料としている文献よりも古い『円珍俗姓系図』にも龍古(龍川)、波夜古(早川)等の用例が見える。どちらも新居浜西条市内の地名である。

 この読みは「川」が訛ったものではなく、察するところ黄河の「河」ではなく、長江・漢江等の「江」のを宛ているのではないかと思われる。門外の史料では川野(かわの)と書いているかもしれないが、伊予では河野さんを「かわのさん」と呼ぶ人は、まずいないようである

 その河野の家名を自ら改め、一柳氏の始祖となったのは「一柳宣高」という人であった。

 



 一柳宣髙(ひとつやなぎ のぶたか)

 
 一柳氏は伊予河野氏の庶流で、宣髙が始祖である。

 『寛政重脩諸家譜』によると宣髙は河野通直弾正少弼)の男子になっている。しかし『寛政譜』は父通直の没年を大永年中(1521~1528)としており、実際の通直は元亀3年(1572)まで生存していることから、通直と関係がある人物なら、『一柳家史紀要』(一柳貞吉編)にあるように通直のではないかと推察される。「永正16年に父が没したから、嫡男通直が後継して、大永年中に二男の宣髙が美濃に来た」の誤りであろう。


 河野宣髙は大永年中に故郷の伊予を離れて美濃に移った。そのころ河野宗家は衰退気味で、かつ宣高は庶流でもあることから、思い立って美濃に進出したのだろう。美濃国厚田郡に来てその地の守護の土岐氏に仕えることになった。

 
 なぜ美濃国までやって来たのか、理由は書かれていないが、察するところ、美濃には同じ河野氏出身の稲葉氏が先住していたからではないかと思う
。稲葉氏は先代から土岐氏に仕えていたが、土岐頼芸斎藤道三に追放されたため、やむなく稲葉氏も良通(一鉄)の時代に道三や義龍に仕えることになり、その後は織田信長にも仕えた。


 稲葉通貞‥・稲葉通則‥・稲葉良通(一鉄)

 河野通宣・・・一柳宣高(兄は通直)‥・一柳直高(室は一鉄の姉の娘)

  *稲葉通則、稲葉良通、一柳宣高、一柳直高はいずれも土岐氏に仕え、稲葉氏はのちに斉藤氏・織田氏に仕えるようになる。

 
 その稲葉氏を頼って宣髙も土岐氏に仕えたのではないかと思う。

 この河野宣髙は蹴鞠(けまり)が好きだったらしい。そこで、土岐氏と蹴鞠の席で一緒になったときに、「殿、私に何かよい家名をいただけないでしょうか」とお願いしてみた。すると土岐氏は「貴殿には河野という名門の名がある。そんなよい名をなぜ変えようとされるのか。今のままでよろしいではござらぬか」という。

 しかし、宣髙は今のような衰微した身で先祖代々の河野の名を汚すことは出来ないと常々考えていたようで「まことにありがいお言葉ですが、こちらへ来たからには、河野の名は忘れて新たに出発したいのです。是非とも何かいい名をいただけないでしょうか」

 「それならば…」と土岐氏は思案していたが、ちょうどその庭に一本の柳の木が生えていた。「それでは、一柳はいかがかな?」「ひとつやなぎ? ああ、いい名でございますな。ありがたき幸せ。では、本日より一柳にさせていただきまする」。

 こんな感じで、一柳氏になったといわれている。もちろん別説もあるにはあるが、その中では、この話がいちばんいい話だと思うので、この説で納得している。

 そんな経緯で、宣高は土岐氏(頼芸)に仕えるようになった。それが伊豫西條藩主ほかの(先祖の)一柳氏の始まりである。

 

(次回  二代 一柳直高)


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