鄙乃里

地域から見た日本古代史

伊豫西條藩の一柳氏 ② 直高

 一柳直高(ひとつやなぎなおたか) 

 初代一柳宣高(のぶたか)の子を直高という。室は稲葉一鉄の姉の娘。直高の事績は『寛政重脩諸家譜』には、とくに記されていない。「又右衛門、天正8年7月2日死去」とあるだけ。

 その他の史料によると、天文11年(1542)主家の土岐頼芸斎藤道三により美濃から追放されたときに、父宣高が40歳、直高が15歳だったという(東予史談第24号「西條の起源及変遷」西原生)。その後は親子ともども斉藤氏には仕えず、美濃国厚見郡西野村の領地に隠棲した。

 仕官しなかったのは、主君を追放されて苦々しく思っていたからなのだろうか。

 「土岐の殿様はいったいどこへ行ってしまわれたのやら尾張とかいう話だが。仇(かたき)に仕えるぐらいなら、いっそのこと田舎でニートでもやって暮らしたほうがましではないか!」と思った?…のかどうか。

 それでも、のちには織田信長に仕えているように思わせる史料もあったり、その子の直末も父の跡を継いで織田殿に仕えたようだとある。ほかにも斉藤義龍・龍興に仕えたのちに織田方に移ったとの話もあるらしいが、どれもこれも決定打ではないし、斉藤道三に仕えたという話はない。

 いずれにしても直高はかなり長期間、自分の領地に隠棲しており、仕官はあまり、というか全然しなかったので『諸家譜』にも事績が記されていないではあるまいか。

 ほかに直高に関しては、浄土真宗本願寺派岐阜別院の沿革に、以下のような話も伝えられている。

 1570年~1590年頃、本願寺第11代顕如門主の美濃地方ご巡教の折、この地の土豪であった一柳直高が信徒となり、直高の没後、その墳墓のそばに一寺が建立された。

 慶長8年(1603)准如上人が当地を巡教した際に、子息の一柳直盛が父の遺命により申し出て、この寺を本願寺の坊舎別院としたのが寺(岐阜別院)の始まりである。

とあるが、おそらく直高晩年の出来事だろう。


 天正8年(1580)年7月2日死去。52歳と『寛政譜』にあり、法名を香林宗梅(宗栴?)という。この没年齢が正しければ、生誕年は享禄2年(1529)になる。

 尚、妙心寺南化和尚(円明国師)は直高の弟である。

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(次回 三代 一柳直末)

 


 明けましておめでとうございます。本年もどうかよろしくお願い申し上げます。