鄙乃里

地域から見た日本古代史

伊豫西條藩の一柳氏 ③ 直末

 一柳直末(ひとつやなぎなおすえ

 
 一柳直末は直高の男子。美濃国厚田郡西野村(又は今泉村)の生まれで、市助、のち伊豆守と称される。豪勇にして果敢な人だったらしい。

  
  一柳宣高・・・・・・・・直高・・・・・・・・・・・・直末(伊豆守)・・・・・・・・・・・松千

          南化和尚    女子(一柳三郎右衛門室)

                  女子(小川祐忠室)

                  直盛(監物)

                  直道(五郎兵衛)

                  女子(一柳源左衛門末晴室)

                  太郎右衛門


 『寛政重脩諸家譜』には元亀元年(1570)頃、美濃国にいた秀吉木下藤吉郎)に仕えたとある(仕官の年齢・年代には諸説あり)。
浅井氏との合戦に軍功があり、秀吉に取り立てられて黄幌(きぼろ)七人衆(黄幌は秀吉の馬廻りからとくに選抜した騎馬武者で、名誉の印である黄色い幌と、紋旗などの着用を認められていた)に列せられた。

 天正六年(1578)秀吉が播磨の三木城を攻めたときには、直末に播州のうちにおいて2千5百石の知行が与えられたので、美濃国から弟の直盛(なおもり)を呼び寄せ、90石を与えて自らの被官にしている。

 山城槙島(宇治真木島城)に1万石を与えられてからさらに軍功を重ね、天正13年(1585)美濃大垣城2万5千石、同15年には美濃国本巣郡真桑村軽海(かるみ)で5万石を領した(『寛政重脩諸家譜』では美濃国の内で6万石とある)。

 その後に豊臣秀次の宿老となり、同18年に秀次に従って小田原征討参戦。3月29日、伊豆の山中城を強襲した。ところがその際、不運にも相手方の鉄砲の流弾に当たって無念の討死を遂げるのである。 

 『一柳家史紀要』に享年38歳とある(『寛政重脩諸家譜』には45歳とあって、生年とともに確かなことは不明。ただ45歳であれば直末の生年は1546年になり、同家譜の父直高の生年が1529年で直高18歳のときの子になるため、ちょっと早すぎるのではないかとも思われる。また戦死のとき直末にはすでに女子が二人いたが、嫡男松千代(松寿丸)はまだ赤子で、弟の直盛も27歳だった)。この戦では、下の弟の直道(五郎兵衛)も7月10日に陣中で死去したと『寛政譜』には記されている。

 直末の訃報を聞いた秀吉は、箸を投げ捨て「関東をもっても替えられない伊豆守を喪った」と深く嘆いたという。秀次も哀れんで、直末の母に800石を与えている。

 直末の室は黒田孝高(よしたか。官兵衛のちに如水)の妹で、男子に幼い松千(松寿丸)がいて黒田家の養子になり、長政に男子が出来ない場合は黒田家を継ぐことになっていたが、やがて嫡男が誕生したのでそれはなくなった。その後、松千は14歳前後に真相不明ながら事故で早世したと伝わる。福岡市博多区聖福寺松千代の墓がある。

 一柳直末、天正18年3月29日戦没。生涯のほとんどを戦場で過ごしたと伝わる。

 柳家大名としての基礎はこの直末により築かれたので、子孫からはとくに尊敬されているとのことである

 

関東をもっても替えられない伊豆守    justsystems  


(次回は 四代 一柳直盛)