鄙乃里

地域から見た日本古代史

伊豫西條藩の一柳氏 ④ 直盛

 一柳直盛(ひとつやなぎなおもり) 初代伊豫西條藩主


 一柳直盛は一柳直高の二男で、
直末の弟。永禄7年(1564)美濃国渥美郡で生まれる。四郎右衛門、監物。

 羽柴秀吉の播磨三木城攻めのあと呼ばれて兄直末の被官となり、兄と戦場で行動をともにしたが、天正18年(1590)伊豆山中城の強襲のとき直末が相手方の銃弾に倒れたため、兄の後を引き継いで全軍を指揮した。

 その功により太閤より尾張黒田3万石(愛知県一宮市木曽川町黒田)を与えられ城主となる。直末には嫡男の松千代が誕生したが、まだ赤子だったため、秀吉の命により弟の直盛が兄の後継者になったのである。

 賤ヶ岳の戦いでは秀吉から「兄にも劣るまじき者なり」と賞され、それまでにも伊豆守(直末)から3千5百石余の録を得ていた。文禄元年(1592)には5千石が加増されて3万5千石になる。

 次いで、関ヶ原の戦いでは東軍に属して功を挙げ、1万5千石を得て5万石となり、伊勢神戸三重県鈴鹿市神戸)に所領を与えられて移封した。移封先の伊勢神戸では直盛一代で35年の長期を領しているので、市民からは今でも親しみを持たれているようだ。その間にも大坂の陣に徳川方で参戦して軍功を上げている。

 その後も直盛は二男直家を関東へ人質に送り(家光から84人扶持が与えられた)家康・秀忠・家光の葵3代に仕えて、将軍の京や大坂への出向、日光山の参詣などに度々の供奉を命じられていて、将軍家の信頼があったようだ

 しかし、伊勢神戸城主として年を重ねること35年。  
 自身も高齢となり、奥方も亡くしたことから、祖先の地への望郷の念が芽生えたのだろうか。あるいは存命中に錦を飾りたかったのかもしれない。「先祖ゆかりの地に所領をたまわって、子孫に長く伝えたい」と思い、三代将軍家光の代に伊豫國への国替えを希望して認められている。

 そんな個人的な願望が許されるのだろうかとも思えるが、直盛父子の長年の功績や、父子ともども将軍家の顔見知りであったこと、直盛が老い先短い年齢であることなどが斟酌されたのだろうか。

 また直盛が家族だけでなく一族や縁故者までを大切に取り扱っており、大きな揉め事もなく信望を得ていたことなども考慮されたのかもしれない。

 そのころの伊豫は24万石の松山藩主・蒲生家が廃絶したあとで、松山藩には家康の甥・松平定行が15万石で入ったが、西條周辺の領地が空いていたことは確かだ。5万石に1万8千6百石を加恩されて伊豫西條への転封を命じられている。

 6万8千6百石の内訳は、伊豫西條が5万8千6百石、播州加東郡が1万石で、播州のうち5千石が二男直家に与えられた。家光の指図のようである。


 こうして、寛永13年(1636)6月4日転封の暇をもらい、直盛一行は伊豫西條へ出発した。出発地点は伊勢神戸ではなく、
江戸からだと思われる。ところが同年8月19日長旅の疲れか、老齢のためか、それとも持病があったのか分からないが、旅の途次の大阪において、無念にも73歳で病没してしまったのである。

 大阪市中央区谷町の大仙寺に葬られた。大仙寺の和尚と直盛は知己の間柄だったらしく、導師を務め、大きな五輪塔がある。院号は多宝院。遺髪は伊勢神戸の菩提所龍光寺に納められ、龍光寺境内に近年「一柳監物彰功碑」が建てられている。結果として祖先の伊豫の地は踏めなかったことから、伊勢神戸城主といったほうが相応しいのかもしれないが、転封が決まったあとなので最終的には初代伊豫西條藩主とされている。

 直盛の男子のうち嫡男直重、次男直家、三男直頼の兄弟が所領を引き継ぐことになる。



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(次回は 五代 一柳直重)