一柳直重(ひとつやなぎなおしげ)二代伊豫西條藩主
一柳直重は直盛の嫡男である。慶長3年(1598年)山城国伏見で生まれ、のち伊豫西條藩二代藩主(1636-1645)。従五位下丹後守、通称は入道。
慶長14年(1609年)12歳で従五位下丹後守に叙任。駿府に家康、江戸に秀忠に拝謁。大坂の陣には父とともに徳川方として参戦。その後もしばしば、秀忠・家光の上洛や日光山に供奉する。
寛永13年(1636)父直盛が伊豫西條藩転封を願い出て許されたため、伊豫国へ共に向かうが、思いがけずも父が大阪で病死した。
そのとき直重がどこにいたかは定かでない。
『西條誌』に
一柳丹後守様、伊勢より御引越ハ、寛永十三子六月朔日、同四日、一柳権之丞様御着、(これハ大町村作十郎が古帳の内より認出の侭なり、
との記事があり、四日に一柳権之丞様が到着となっている。一柳権之丞が誰のことか不明だが六月四日頃は直盛がまだ出発した時分なので、この日付で到着なら、あるいは先遣隊だったのか? 地元の古帳が日付を間違えるはずもないと思うが。
嫡男直重には直家、直頼の弟がいたが、急な事態で兄弟ともども混乱したのではないかと思う。江戸に急遽知らせを送り、大仙寺で父の葬儀を行い、その後に自らも報告と遺領相続の承認を受けるため江戸に向かったのではないだろうか。直重が幕府から正式に襲封の命を受けたのは11月24日だという。
直盛の伊豫西條藩は、西條藩とはいっても、新居郡・宇摩郡(うまぐん)、それに周敷郡(しゅふぐん)の一部を合わせた、かなり広い地域だった。それを兄弟で分知したのである。
遺領は三兄弟に以下のように分与されている。
・嫡男直重…伊豫西條藩3万石(新居郡を中心とし、宇摩郡・周敷郡の各々一部)
・二男直家…川之江藩2万8千6百石(宇摩郡・周敷郡の一部1万8千6百石と、播州加東郡1万石)
・三男直頼…伊豫小松藩1万石(周敷郡の一部を中心に、新居郡の4ヶ村)
実際の入部時期は正確には分からない。正式の決定が出る前に転封先に赴くことはないと思われること、直家・直頼への入部許可が寛永14年になっていることから、史料はないが、直重も寛永13年末か弟と同時期ではないかと推測される。
西條入領後は大町(おおまち)に仮の居所を設け、直ちに城下町造りに取りかかる。
海岸近く当時の伊曽乃神社御旅所があったところに、土塁をかき上げて石垣を積み、周囲に堀を巡らせて本陣川の水を通した。その中に陣屋を築造し、陣屋の周囲に武家屋敷を構え、さらに、その東側に町屋を置き、大町の有力者(旧家)たちを呼び寄せて町年寄とした。
その当時は陣屋の少し北側に海岸線があったので、その一帯は喜多浜(北浜)町と呼ばれ、それが後に七町に分かれて、それぞれに町年寄がいたように『西條誌』に書かれている。
七町は、本町・横町・紺屋町・東町・大師町・中之町・魚屋町。これが西條の御城下町になる。
また加茂川の治水・新田開発をはじめ、10年ほどの藩政の間に西條城下の基礎となる事業を行っている。
伊勢神戸からも常福寺、荒木満福寺、善導寺などゆかりの寺を呼び寄せて各所に配し、常福寺を一柳家の菩提所とした。
他方、伊勢神戸で逝去した母堂と正室の菩提を弔うため、法華宗の妙昌寺(みょうしょうじ)を建立。江戸へも度々、往復しているようだ。
正保2年(1645)6月24日、江戸愛宕下において病没する。48歳。墓所は港区芝の金地院(こんちいん、東京タワーの下)で五輪塔がある。直指院。
その後の西條藩は、長男の直興が継いだ。
(次回は 六代 一柳直興)