鄙乃里

地域から見た日本古代史

熊本地震から3年に思うこと

 気まぐれ随想録『赤とんぼ』


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 4月14日で熊本地震から3年が経過した。先月は東日本大震災の8年だった。熊本市内や益城町もそうだが、同様に被害が大きかった南阿蘇村にも訪れたことがあったので、よそ事のようには感じられない。

 人命や生きものの被害、家屋やインフラの損壊は勿論のことだが、あの静かで美しい裏阿蘇の景観が一変した現実はいたたましい限りだ。報道によるとまだ避難生活を強いられている被災者は多く、生活再建の目途はたたないそうだが、地域住民や多くの人たちの努力により、少しずつ復興が進んできているようにも感じられた。


 地震に関しては、別の番組内でも「自然は、ときとして恐ろしい牙をむく」との発言があったが、それは「自然」が何を指しているかにもよるだろう。その「自然」が、ふるさとの山や川や海を指しているのなら、ふるさとの自然もまた被害者であろう。美しい山容は崩れ、清らかな河川はもとの水を失い、豊かな海はえぐられて不純な堆積物で汚染される。津波にしても、海は単に地震の作用を受けたに過ぎず、海底環境や生態系さえも変えられてしまうだろう。

 それらを源で動かしている力は、地球や、気流や、他の天体の持つ膨大な物理的エネルギーである。そして、そのような危険な法則に支配された地上において、かろうじて、われわれ生物が地球史の間隙を埋めるように生存している。それは地球の歴史の長いスパンから見れば何も異状なことではなく、それがむしろ常態であり、地球の必然の姿なのである。

 
 しかし、もし仮にこの運動エネルギーがなかったとしたら、生物が生存していけるかどうかは疑問だ。気象や、風の恵みや、水の恵みは当然のことながら、身近な生活でも温泉は出ないし、石炭や石油も採掘できない。石灰石や貴金属など暮らしを支える鉱物資源も得られないかもしれないだろう。おそらく海中の生物や緑も存在しなくて、たとえ地上が平穏であっても、そのような状況で人類だけが生きていけるだろうか。


 人間がしなければならないことは、ただ荒々しい自然活動の発生を恐れ何も起こらないことを祈るだけでなく、このように過酷で複雑な環境下でわれわれ人類が生き抜いていくための心構えとは何であるのか…を学ぶことではないだろうか。

 大切なことは、そのための知恵と手段を共有することであり、一致団結して、できる限りの備えをすることだろう。平時において誰もが腐心しなければならないのは、第一に、このような自然と調和して地上に生き抜くための準備と工夫である。

 
 これは天変地異だけの問題ではなく、食糧問題、水問題、温暖化、感染症対策、経済活動による環境汚染、森林破壊など、緊急に対応が必要とされる重要課題が目白押しだ。

 つまらない我意を金科玉条のように振りかざして、人と人とが争ったり、国と国とが覇権を競い合うような甘い余裕は―― この地上にはないはずなのである。

 

                   

                    

 

平成31年4月15日の記事に補筆したものです)