鄙乃里

地域から見た日本古代史

湯の町エレジー

 気まぐれ随想録『赤とんぼ』


  湯の町エレジー イメージ 1


 昭和で好きな懐メロにもいろいろあるが、歳のせいか、最近は「湯の町エレジー」をよく聴いている。有名な古賀メロディーで、多くの歌手がカバーしている。

 若いころ少しギターを触ったのでなつかしさのせいもあるが、湯の町情緒あふれる野村俊夫の歌詞と哀愁の古賀メロディーは、何度聴いても胸に滲みる。 それぞれの歌い手によっても特色がある。

  
 歌は本来その歌詞や曲想を作者の意図どおり忠実に表現することで、作品の内実やモチーフを最大限に発揮できるものだと思う。そのため歌手自身の個人的な解釈や表現法はできるだけ差し控えたほうがいいとの原則があり、それによって作品が一人歩きできるのである。

 とはいうものの、それがすべてではないかもしれない。「湯の町エレジー」のように、みんなに長く親しまれている客観化した作品の場合には、歌手それぞれの解釈や表現法があってもいいのではないか…とも思う。多くの歌手がカバーしているのもだいたいそんな曲であり、聴く側にとっては、歌い手の違いにより鑑賞の幅が広がるからである。

 ただ、そのためには、歌手のほうにも作品を生かせるだけの十分な技量や素質・個性が欠かせない。そのことで作品本来の内実が損なわれてしまったのでは何にもならないのである。表現する側は意識しなくても、聴き手のほうはそのあたりの違いを敏感に見分けるものなのだ。

 その結果、同じ歌手のパフォーマンスでも、ときにより好評だったり不評だったりすることがある。作者の楽想に寄り添えるだけの内的体験や、安定した技量・才能が備わってこそ自由な表現も可能なのであり、表面的な技巧や一時の奇抜さに頼っているだけでは、すぐに飽きられてしまうのが芸能界である。妙にひねった歌い回しや余計なアドリブを聴かされるよりは、むしろ素人の素朴な歌唱のほうが好ましく感じられる場合だってあるだろう。

 どんなジャンルであれ、芸事を身につけるのは容易なことではない。才能に加えて人一倍の努力と向上心が必要とされる。三日坊主の自分などは、とうてい真似できない世界だ

 
 それにしても、まもなく平成が終わろうとしている。一昔前は「降る雪や明治は遠くなりにけり」といわれていたものだが、新元号に変わると「昭和も
遠くなりにけり」の感じが強くなってくるかもしれない。大正や昭和生まれには何だか心細くさびしい感じもするが、逆に希少価値は増してくる。「湯の町エレジー」など、昭和の懐メロは、その歩みとともに今後も不滅であると信じたい。

                   

                     

(平成30年の記事に補筆したものです)