① 建武中元二年(57年)、倭奴國奉貢朝賀,使人自稱大夫,倭國之極南界也。光武賜 以印綬。[『後漢書』]
② 安帝永初元年(107年)、倭國王帥升等献生口百六十人、願請見。 [『後漢書』]
③ 漢光武時、遣使入朝、自称大夫。安帝時、又遣使朝貢、謂之[亻妥]奴国。桓・霊帝之間其國大乱、遞相攻伐、暦年無主。[『隋書』]
志賀島の金印について
以前にも少し書いたことがありますが、江戸時代天明年間に福岡県の志賀島から発見されたという金印については謎が多いです。
この金印は漢の時代の1寸角に作ってあるらしく、「漢委奴國王」の5文字が縦3列に彫られ、1列目は「漢」の字だけです。
彫られた文字をどう読むのか、それをどの国に比定するかについては、主として二論があるようです。
(ア)「漢の委奴(いど)国王」と読んで、伊都国に当てる説。
(イ)「漢の倭の奴の国王」と読んで、奴国に当てる説。
その前にまず、この金印が本物か後世の贋作かという論争があります。が、その点は本物だと思われます。偽物を作る場合は何かの目的があり、目的を持つためには金印の由来を知ることが必要ですが、由来を知ろうとすれば『後漢書』を読まないといけません。
『後漢書』で金印について書かれた記述は①の史料です。
この 『後漢書』には「倭奴國」と記されているため、見本がない贋作の場合は、むしろ「倭奴國王」とそのまま印刻するはずでしょう。しかし実際の金印は「委奴國王」となっています。また金印の質やサイズ、取っ手の形状などからふつうに考えても…偽物と断じる方が難しいと思うのです。
その上で光武帝の印綬だとすれば、『後漢書』に「倭奴國」と書いてあるので、金印の「委奴國」も「倭奴國」のことと考えられ、これをあえて「いどこく」と読まない限り、この時点で(ア)の伊都国説は否定されます。
そこで残る(ロ)の「倭の奴の国王」もしくは「倭奴国王」説が考えられますが、問題はこれからです。
漢の金印は主として周辺諸国の王侯に下賜されて皇帝との冊封関係を結ぶ重要な印綬なので、その国の大王に下賜されるべきもので、その中の小国に授与されたりするものではないようです。それは他の諸王の例を見ても分かります。
『魏志倭人伝』に伊都国は1万戸(1千戸はたぶん版の誤りでしょう)。奴国はその倍の2万余戸あるが、それ以外にも投馬国5万戸・邪馬台国7万戸のような大国があり、これらの戸数は概略で実数かどうかは分からないにしても、国々の大小関係は知ることができます。
一方で、魏よりも古い漢の時代から、すでに漢側には「倭」の概念(百余国)が存在していました。
それから考えても『魏志倭人伝』で2万余戸に当たる国の国王に金の印綬を与えるとは考えにくく、(奴国もかなりの戸数を擁していますが)そのような倭国の中小国と冊封関係を結んでも漢にとってあまり意味がないでしょう。志賀島の金印には卑弥呼の金印と同等の「紫綬」が付いていた可能性も一部に指摘されているぐらいです。
加えて「倭奴国」は「倭國之極南界也」と記されているのですが、博多の奴国や伊都国がはたして倭国の極南界と言えるでしょうか。 後漢の時代に博多の奴国よりも北に何十ヶ国もの小国が存在したとはとうてい考えられません。北は海なんですから。
倭奴国について
前回で述べた107年の朝貢も③の史料には倭奴国(倭も[亻妥]も同じ)からと書いてあり、「倭國王帥升等」を孝安天皇と同一人物と考えるなら(記紀の内容からは)倭奴国は明らかに畿内の奈良盆地の国であり、その前の57年の金印も同じ倭奴国王なので、金印は博多の奴国王のものではないことになります。
そして奈良盆地の国なら、例えば本州が南向きの古地図を見れば、邪馬台国の方角とも合致し、倭奴国が「極南界にある」との記述も納得できるのです。『魏志倭人伝』にも、その余の旁国としてもう一つの奴国が書いてあったと思います(この奴国は博多奴国の二重掲載と解釈すべきではありません。そんなことをしたら30ヶ国が29ヶ国になります)。そのころ奈良盆地ではすでに卑弥呼の邪馬台国が倭連合の盟主になっていたから、かつての倭奴国は単なる奴国と呼ばれる一国として同じ地域に存続していたのかもしれません。
この「倭奴国」をどう読むのかはなかなか難しく、いろいろな説が考えられているようですが結論は得られていません。中には「奴」を「ど」と読む人もいます。「匈奴」の「ど」です。そのため「倭奴国」を「伊都国」と解する人もいるわけです。
しかし、それだと伊都国に孝安天皇はいませんから、②の史料は通説のように「倭国王・帥升」と分割して読まざるをえなくなり、奴国と同じように「倭奴(いど)国=倭(い)国」になってしまいます。それなら金印も、どうして最初から簡単に「委国王」と彫らないのでしょうか?
たしかに伊都国や博多奴国には立派な遺跡や遺物が現存していて、弥生時代に繁栄した国であったことはたしかです。したがって①の『後漢書』の史料だけなら、伊都国王や奴国王も金印の有力な主として自分も受け止めたことでしょう。でも、『隋書』と併せて読むと、それはおかしいと気づくはずです。
「倭」はなるほど「い」とも読めますが、本来が「わじん」を表すための専用漢字なので、たぶん「わ」としか使わないでしょう。「大和(だいわ)」の読みからも了解されると思います。「奴」のほうも漢音では「ど」になるのですが、この場合には賛成は出来かねます。
時代はかなり遅れますが『魏志倭人伝』の読みからすると「な」「の」「ぬ」が適当と考えられ、そのまま「わ・な国」でいいのではないかな…と思います。ただし、この場合の「倭」はもしかしたら、「やまと」の意味になるのかもしれません。筑紫の奴国に対して「倭(やまと)の奴国」と称しているのでしょうか? このあたりは推測にすぎないのですが。
『旧唐書』には「倭國者、古倭奴國也」、『新唐書』にも「日本、古倭奴也」 とあります。訳すると「倭国は、いにしえの倭奴国である」。この倭奴国の系列から卑弥呼が共立されて三輪山麓の邪馬台国が誕生したとすれば、「倭國者、古倭奴国也」の意味はきわめて分かりやすいです。その場合はこの倭奴国を神武天皇以降のいわゆる「欠史八代」の王権と考えればいいでしょう。
女王卑弥呼の時代にはこの国にまだ孝元天皇や開化天皇が併存していたのかもしれません。なぜそう考えるかというと、『魏志倭人伝』には邪馬台国の時代にもまだ21ヶ国の「奴国」が記されているし、欠史の天皇陵はそれまで円墳や方墳でしたが、孝元・開化両天皇の御陵は一応、宮内庁指定による前方後円墳に変わっているからです。この奴国は自然消滅したと思います。同じ系列でも国が変わったので、『日本書紀』の欠史八代の天皇には事績が記されていないのではないでしょうか。
倭(やまと)王権最初の第10代崇神天皇の時代には、武埴安彦(たけはにやすひこ)が登場します。卑弥呼と不仲だった卑弥弓呼は『魏志倭人伝』で男王になっていますが『翰苑』には「女男子為王」と書かれていて(誤写かどうか分かりませんが)この武埴安彦と吾田姫を指すのではないかとも考えられます。百襲姫(邪馬台国)・崇神天皇と喧嘩していますよね。武埴安彦の嫁が吾田姫なので九州でも狗奴国と結束して卑弥呼の女王国と対立していたのでしょうか? 張政らがわざわざ邪馬台国までやって来たのは、魏と呉の代理戦争のような意味合いがあったからかもしれませんね。
戦を仕掛けるにあたって、吾田姫は香具山の土を取って、熊野から進軍した神武天皇の故事を真似ています。武埴安彦の「埴安」は香具山付近の古地名で、神武天皇が即位した橿原市のことだそうです。そして『日本書紀』には埴安彦らが敗れたと書かれています。
博多奴国と倭奴国の関係はもしかしたら分国かもしれませんが、金印の倭奴国は筑紫ではなくて畿内の国ではないでしょうか。その上で、この倭奴国を神武天皇と欠史八代の、いわゆる「葛城王朝」ではないかと想定します。
それが百襲姫の時代に三輪山麓の国へ移ったのが倭連合の盟主となった三輪王朝・倭(やまと)王権の始まりで、第10代崇神天皇が御肇國天皇(はつくにしらすすめらみこと)。初代神武天皇は倭奴国王権の始まりとしての始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)ではないかと考えます。
そのため、107年の『倭國王帥升等』が孝安天皇とすれば第6代天皇なので、そこから一代を何年か(平均35年ぐらい?)で5代遡上すれば、神武天皇即位年も自ずから想像がつくはず。その結果、辛酉年即位から西暦紀元前60年あたりが導き出されるとともに、『日本書紀』が干支10還分(10運)を延長させているらしいことが理解され、各天皇と陵墓の年代もおのずから修正されて矛盾がなくなるようです。
この西暦起源前60年は、あくまでも即位の辛酉年が正しいとしたときに計算上一番近い辛酉年という意味で、必ずしも確定というわけではありませんが、紀元前660年まで干支10還分延長とするには、ちょうど切りがよさそうな年代ではあります。
以上『後漢書』ほかの史料を「どう考えるのか」を主題として考察してみました。
それでは畿内の倭奴国王(懿徳天皇あたりか?)の金印が、なぜ筑紫から発見されたのか…との疑問に関しては(過去記事でも、後代の誰かが志賀島の海神の社に納めた。あるいは細石神社、八雲神社の神宝にした等々の可能性は検証してみましたが)なにぶん金印発見の経緯や場所が定まらないため、今のところは不明というしかありません。
しかし、「倭国伝」を見直してみると、福岡で発見されたから、その金印が筑紫の国王の金印である、とは…必ずしも言えない可能性があることが分かるでしょう。
(本稿はこれで了)