鄙乃里

地域から見た日本古代史

もう一度見直そう倭国伝 ~倭國王帥升等の朝貢から卑弥呼の共立へ~

 弥生時代後期から古墳時代の初め(2世紀~3世紀中頃)にかけての日本の姿を記した文献史料はわずかですが、中国の国史の中に登場します。

 一般に「倭人伝」「倭国伝」「倭伝」などと呼ばれるこれらの史料のうち、とくに後漢三国時代の文書は倭国邪馬台国の当時の様子を知る上で貴重な文献史料とされています。

 その中には三国時代邪馬台国よりも前の弥生時代後期朝貢(ちょうこう)記録もいくつか散見できますので、先ずそれから書き出してみます。


①  建武中元二年(57年)、倭奴國奉貢朝賀,使人自稱大夫,倭國之極南界也。光武賜   以印綬[『後漢書』]

②  安帝永初元年(107年)、倭國王帥升等献生口百六十人、願請見。 [『後漢書』]

③  漢光武時、遣使入朝、自称大夫。安帝時、又遣使朝貢、謂之[亻妥]奴國。桓・霊帝之間其國大乱、遞相攻伐、暦年無主[『隋書』]

 このほかにも後代に撰述された史書はたくさんありますが、どれも類似の内容なので必要ありません。

 続いて倭国大乱邪馬台国女王卑弥呼について簡潔に記された文章があります。

 

④ 漢霊帝光和中、倭國乱、相攻伐暦年、乃共立一女子卑彌呼為王。 [『梁書』]

⑤ 其国本亦以男子為王住七八十年倭國亂相攻伐暦年乃共立一女子為王名曰卑彌呼事鬼道能惑衆年已長大無夫壻有男弟佐治國。 [『魏志倭人伝』]



 こちらも必要最低限の記事だけを書き出して、他の細かい描写などは省略しています。

 邪馬台国誕生の経緯を考える上で必要不可欠な資料はこれだけです。

 これだけですが、実はこの短い記事中に数多くの情報が含まれていることが分かるでしょう。

 あとは全体のあらましを知るために魏志倭人伝約2000字を読み、『日本書紀』を少しかじるだけ(どちらも現代語訳がある)で、西暦57年の志賀島の金印、107年の倭国王師升等の朝貢邪馬台国の読み方や所在地、女王卑弥呼の有力候補、倭奴国及び初代神武天皇のおよその即位年に至るまでの事柄が、一括して理解できる可能性があるのです。

 上記の史料から分かる内容は次の点でしょう。


西暦57年後漢光武帝のときに倭国から使いを送ったのは倭奴国である。
  倭奴国倭国極南界にある。その王に対して光武帝から印綬が授与された
 (これが志賀島の金印とされている)。

② その50年後(西暦107年)後漢安帝元年に、倭国王帥升等が生口160人を奉献してきた(生口は奴婢)。

③ その安帝時の遣使も同じく倭奴国からだった。        
  その国は後漢の桓・霊帝間に大いに乱れ、互いに攻め合って、何年間も治める主がいなかった(倭国大乱)。   

④ その大乱は漢の霊帝光和中(西暦178~184)にあり、そのため共に一女子卑弥呼を立てて女王とした。

⑤ その国ももとは男王が治めていたが、その期間は七八十年倭国は乱れ、互いに攻め合うことが何年も続いた。そこで(争いを収めるため)共に一女子を立てて王とした。その女王の名は卑弥呼といい、卑弥呼鬼道(きどう。シャーマニズム)に仕えて巧みに民衆を誘導した。(魏の使者が訪れたときには)すでに高齢だったが夫はおらず、弟がいて政務を助けていた。


などであり、倭奴国倭国の使い分けが少し判りにくいですが、史料からは、これらの出来事がみな同じ国の話らしいことが推察されます。

 つまり、金印の主も、生口百六十人奉献の主も、たぶん卑弥呼も、時代はそれぞれに異なるが同じ系列の人物ということです。ただし卑弥呼については倭奴国王ではなく、『魏志倭人伝』の記述から、邪馬台国を都とする女王に共立されていることが分かります(「南に行くと邪馬台国に至る。女王の都があるところ)」。

 したがって通説どおりに倭奴国博多の奴国だと仮定するなら、金印の王も倭国王帥升等も博多の奴国王であり、一連の記事中の卑弥呼の説明についても、倭奴国に関連した話と捉えなければいけないでしょう。

 

 「倭國王帥升等」の朝貢について

 ところが先ずおかしいのは、通説では②の倭奴国の王を「倭國王・帥升・等」と分解して読んでいることです。そんな根拠はないのですが、仮にこの読み方で解説したらどうなるでしょうか。「倭奴国から倭国王帥升(すいしょう)らが使者をよこして生口160人を奉献し、接見を願った。」になりませんか?  自分にはこのようにしか読めないのです。

 それでは倭奴国倭国は同じ国なのか? ということです。

 でも通説に従ってこの史料を読むと「倭奴国王=倭国王」になるはずですよね。それなら、金印の時代からは50年隔たっていますが、金印の文字にしてもわざわざ「委奴国王」と彫る必要などなく、倭国王でよかったのではないかと思えるのですが…?

 
 それに「倭奴国王」をその上位にくる「倭国王」とするには、その時代には(記紀の)神武天皇以降の有力王権が畿内で統治していたはずだし、魏の時代でいえば投馬国も5万戸の大国です。その中で2万余戸の博多奴国のかつての王が「倭国王」を名乗って生口160人をはたして貢献できるのだろうか? 卑弥呼ですら10人、臺與(とよ)は少し多くて、それでも30人です。

 『後漢書』には書かれていなくても『隋書』では107年の遣使も「倭奴国」からと明記しているのだから、通説だけが勝手に「倭国王帥升・等」と読んでいいのでしょうか。疑問に思います。なぜ「倭国王」「帥升」と分割するのか聞いてみたいものです。たぶん『後漢書』だけを読んで『隋書』の「倭国伝」を読んでいないから、次の「倭國王」の文字に惑わされているのでしょう。


 そこで自分は、この107年の箇所は「倭國王・帥升」と読むのではなく、全体王名で「倭國王帥升等」だと考えるのです。「帥(すい)」は史書や版により「師(し)」が使用されているケースもあります。『日本書紀』は「やまとくにおししと」としているので、もしかしたら、そのものズバリかもしれません。

 例えば使者が告げた王名に相手方がそのまま漢字を宛てはめた。もっと分かりやすいのは倭奴国王からの上表文に「倭國王師升等(わのくにおししと、やまとくにおししと)」と漢字で署名してあった場合です。その時代に上表文なんてと思われるかもしれませんが、正式な使者はたいてい上表文を持っています。

 130年後になりますが卑弥呼も上表文を書いていますので、王には書けなくても、漢字が書ける渡来人当時でも存在したかもしれません。相手に通じる文字が自国にない(神代文字ヘブライ語は知りませんが)からこそ漢字を一字一音で借用しているのでしょう。ですから少なくとも「倭国」以外の箇所は一字一音で読めばいいのです。

 「帥升(すいしょう)」と読むのはたぶん学者などが思いついた漢風の表現でしょうから、倭の国王名には相応しくありません。後漢史書ははたして「帥升(すいしょう)」と読んでくださいと書いているのでしょうか? 写しただけなので書いてはいないはずです。また王に対して失礼な「等、ら」を付けたりはしないだろうと思います。使者の大夫に対して「等、ら」はいいですが、王は一国に一人しかいないんですから。

 「倭國王帥(師)升等(やまとくにおししと)」は『日本書紀』で言うところの第6代孝安天皇に当たるでしょう。全体が王名なら「倭奴国」とも矛盾がありません。

 ただ、この部分については、後代の2,3の史書中に『後漢書』に曰くとして「倭面土國王帥升等」「倭面上國王帥」などの表記も認められるので、『後漢書』の別の版には実際にそう書かれていたのかもしれません。

 そのため、この点に関しても様々な議論がなされているらしく「面土国」について考察したりする人もいるようです。しかし史書により表記が揺れているのは、引用者にもその意味が理解できなかったということなので、もとの『後漢書』そのものに誤写があった可能性も考えられます。

 使者は倭奴国からと明記しているのですから、それで十分なはずで, 誤写か何か分からないものをまともに考えていたら、出口のない迷路に入ってしまうだけでしょう。


 自分の場合は「倭」も「国」も王名の一部と考えているので「面土国」や「面上国」は必要ありません。仮に「倭面土」にもし意味があるとしたら「倭=倭面土」になるため、「倭」を一字一音に展開したものと考えて「やまと」と解釈するだけです。
 

 もちろん、この解釈には私見も入っているわけですが、単なる思いつきの憶測でもありません。実際に『日本書紀』に孝安天皇やまとたらしひこくにおししと)がいて、107年の王が使者を送った相手方の後漢の皇帝も「孝安帝」で、諡号が対応しています。安帝の元年なので即位を祝賀する意味で使節を送ったのかもしれません。

 次の第7代孝霊天皇「孝霊帝の時代にちゃんと合わせてあります。漢風諡号(しごう)を考えた淡海三船は漢学者であり、これらの時代についても明確な知識があったものと思われます。私見とはいっても、少なくとも矛盾だけで何の根拠もない通説よりは、よほどマシではないかと思っているのですが。

 

 倭国大乱と卑弥呼の共立

 史料⑤には、その国も本は男子を王として、その期間は7,80年とあります。女王卑弥呼を念頭に置いた記述でしょうが、この場合に『魏志倭人伝』の撰述者が意識しているのは、書かれていなくても卑弥呼直近の107年朝貢をした男王のことですから、107年から7,80年と考えるのが順当な解釈で、およそ西暦180年前後になるかと思います。後漢霊帝の時代で、④の史料に霊帝光和中(178~184)に大乱があったことが記されています。その時代は倭国では孝霊天皇後漢の孝霊帝諡号が対応しており、『日本書紀』でも第6代孝安天皇から第7代孝霊天皇へと続いているので、107年の倭奴国孝安天皇で正しければ、次の孝霊天皇も間違いないわけで、この2代で7,80年と書いているのです。ただし、それ以前に王がいなかったという意味ではないと思われます。現に57年印綬倭奴国も存在しているのですから。

 したがって、倭国大乱中のだいたい180年前後あたりに卑弥呼がずいぶん若くして共立されたことになりますが、その系列の中で最も卑弥呼に相応しい女子は、『日本書紀』中の人物から考えると百襲姫(ももそひめ)だと思われます。百襲姫は三輪山大物主神に仕えてお告げをしたり、夢占いをしたり、天皇に危機の予兆を知らせたりしています。これも鬼道です。

 百襲姫の「襲」の字は、官職や家督を子孫が受け継ぐ()、歌舞伎の名跡(みょうせき)を継承する()などの場合に今でも使用されていますが、「百襲姫」も倭連合の国・民に共立されて女王の位についたことから名付けられた呼称ではないかと考えられます(倭はもと百余国)。箸墓(はしはか)がほんとうに百襲姫の墓なら卑弥呼の墓の可能性は大きいでしょう。張政らが邪馬台国へ行ったときはまだ墓造りの最中なので、後円部だけなら箸墓の規模とも合致しています

 そして卑弥呼の宗女の臺與(台与)。「宗女(そうじょ)」は卑弥呼の一族の首長の女(むすめ)をいいますから、百襲姫時代の後期の首長は崇神天皇。なので、臺與(台与)は必然的に豊鋤入姫(とよすきいりびめ)になり、すなわち天照大神の斎王「豊」のことです。「豊」なら臺與台与も「とよ」と読むはずで、邪馬臺国(邪馬台国)も「やまとこく」になります。

 『魏志倭人伝』の「邪馬壹(い)國」「壹(い)與」などの「壹」は誤写ではなく、たぶん撰述者が意図して用いた似せ字ではないかと(「壹」の字の脚部は(豆、とう)なので、これで「と」と読むんだという人もおられますが)。『魏志倭人伝』に一度だけ出てくる「臺(たい)」の字は大切なので、ほかでは使えないのです。ほんとうに「壹(いち)」が正しいのなら、壱岐国の場合も「一国」ではなく「壹国」に統一していたと思いますよ。

 「伊與(いよ)」は愛媛県のことですね。



 次回に続きます)