鄙乃里

地域から見た日本古代史

神武東征の旅4 橿原宮で即位・建国 

 高島宮での準備が整い、『日本書紀』によると、いよいよ戊午の年春2月11日に高島宮を出発して、難波から河内へ進軍しました。

 その途中、速吸門(はやすいのと)で椎根津彦(しいねつひこ)に出会って水先案内をさせたことが『古事記』に書かれています。こちらは明石海峡のことかといわれています。『日本書紀』では豊予海峡(ほうよかいきょう)の話になっていて、なんともいえないのですが、どちらかといえば『古事記』の話の方が正しいのではないかと思えます。

 それは「国造本紀」に「日向より発たし、倭国に赴向きまして、東を征ちたまふ時に、大倭国に漁夫を見そなはし、…」とあり、ここに「大倭国があります。神武東征時代に大倭国はありませんが、『古事記』や『旧事本紀』の時代には当然、存在していました。『魏志倭人伝』にも「大倭」の文字は見られます。

  「倭国」は対馬・北部九州からですから、これによると日向は倭国ではなく、「倭国に出てから東に向かい、大倭国に至った」となります。ですから、この際の大倭は東国の畿内を指すものと考えられます。畿内なら明石海峡が近いですからね。
 椎根津彦は『日本書紀』では「倭国造」と書かれていますが、国造本紀」では倭国造として任じられています。

 その後、神武天皇らの軍は難波碕から川を遡って河内国草香村(現在の東大阪市あたり)の白肩津に着きます。それから生駒山を越えて国中へ入ろうとしたところ、その地の豪族長髄彦孔舎衛坂(くさえのさか、河内から奈良へいたる尾根のこと)というところで戦いになり、進軍できなくなった上に、長兄の五瀬命が流れ矢に当たり痛手を負ってしまいます(ここで長髄彦と戦っていることから、日向時代に火遠理命鸕鶿草葺不命の話が入る余地は、年代的には無理ではないでしょうか)。

 そこで、いったん軍を引いて、太陽を背にして戦おうと決めて南のほうへ廻ることになります。
 ところが、茅渟(和泉。『古事記』には紀の国とある)の山城水門(やまきのみなと。男水門ともいう。紀ノ川の河口あたり)に着いたとき、五瀬命の傷が悪化、紀の国の竃山(かまやま)で落命してしまいます。傷口からばい菌が広がったのか、もしかしたら、毒矢にでも当たったのではないかと考えます。普通の矢が肘に当たっただけでは、少なくとも、そんな短期間で死ぬことは考えにくいでしょう。竃山に葬ったとあり、和歌山市和田438番地に竃山墓と竈山神社があり、五瀬命が祀られています。

 和歌山県神社庁-竈山神社 

 その後も、熊野灘で暴風に遭い船が進まなくなったときに、稲飯命(いないのみこと)が不運をなげいて抜刀したまま海に入り「鋤持神(さびもちのかみ)」になったとあり、三毛野命も波を踏んで常世に行ったと『日本書紀』には書かれています。が、その記述が何を意味するのかは定かでありません。

  「さびもち」は『古事記』に「さいもち」ともいい、「さい」は刀剣とし、「さいもちの神」はその歯からサメを意味するともされていますが、「さび」とは、要は鉄器のことを表現しているのだと思われます。だとすれば「鋤持神」になるとは、鉄の産地である斯羅(しろ)の神になったことを暗示している?とも連想できなくはありません。稲飯命には嘘か真か、別に斯羅(新羅)王の始祖との伝説があり、始祖は赫居世ですから、もしそうだとすれば稲飯命は死んでいないでしょう。

 また臼杵高千穂町では三毛野命も亡くなっておらず、東征途中の嵐で兄弟の船にはぐれたため郷里の高千穂里に帰って鬼八を退治し、のちに高千穂神社に祀られたと伝えています。その御子神も祀られています。

 高千穂神社 十社大明神…三毛入命と鵜目姫命
 
御子八柱)太郎命、輝野命、二郎命、大戸命、三郎命、霊社命、畝見姫命、浅良部命


 たしかに新宮市や熊野市のあたりにも遭難した兄弟を祀るという小さな神社があるそうですが、昔から竈山神社ほどの待遇は受けていないようだし、いかんせんすこぶる古代のことなので、いづれにしても由緒の真否などは不明というしかありません。

 記紀によると、兄たちの船だけが遭難して沈んだのか、それとも嵐を鎮めるために自ら犠牲になって投身したのか…。そうだとしたら末弟の若三毛野命だけが無事生存というのも、最初から筋書きが決まっているようで何んとなくすっきりしない話なんですが。とにかく目的地に着くのに、さらなる犠牲を払ったことだけは間違いなさそうです。

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 そうした艱難困苦の末に、若三毛野命と御子らはやっとのことで熊野村新宮市から熊野市あたり)に到着しました。不慣れな場所でもあったせいか、当初はその地の神の毒気に当てられて恐れを抱き意気消沈していた皇軍でしたが、高倉下の献じた「ふつのみたま」の剣と、八咫烏の先導で勢いを取り戻して進軍。兄猾を討ち、行く手を塞いでいた八十梟帥らも討ち負かしました。その際には、香具山の土で平瓦を作り(これを崇神天皇の時代に埴安彦たちがまねている)、吉野の丹生の川上で天神地祇を祀ってから八十梟帥と戦ったとあり、丹生川上神社にもその関連伝承が残されているようです。       

   *一行はこの地図の辺りに到着し、宇陀方面から、長髄彦の本拠地・登美邑に向かったようです

 そして、太陽を背にして戦った皇軍は、ついに長髄彦を屈服させ、畝傍山の東南、橿原の地に宮を造営して、辛酉の年春1月1日に神武天皇が即位したということです。  『日本書紀』は、この年をもって「スメラミコト」の元年としています。
 『日本書紀』の編年によると、それは紀元前660年のこととされていて、同667年10月5日に日向を出発してから6年余りで東征が完了したことになります。神武天皇51歳のときのようです。

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 ただ、この『日本書紀』の年代設定には大いに疑問があり、もし辛酉年の即位が正しいなら、実年代は紀元前の60年ではないかと考えています。倭国伝の記事による概算からは、『日本書紀』が干支10還分(十運)を延長させている可能性が高いとの判断が可能です。そうすると、実際の日向出発年は同67年ということになりますが、『日本書紀』の個別の年代の干支にしても、それが必ずしも正しいかどうかは分からないので、信じるしかありません。
 東征にかかった年数も『古事記』との間でかなり隔たりがあるようです。『古事記』のほうが、たしかに長すぎるのかもしれないのですが。

 最後に、五瀬命がもし無事だったとしたら、五瀬命が初代天皇になっていたのでしょうか? それとも、やはり末子相続で、神武天皇に当初から決まっていたのでしょうか? 実際にはなかったことですが、なんとなく気になるんですよね。

 橿原神宮公式ホームページ

 

神武東征の旅 ~おわり~   

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