鄙乃里

地域から見た日本古代史

神武東征の旅3 東征会議の高千穂宮 

 『日本書紀』には若三毛野命神武天皇)が45歳のときに兄弟や子どもたちに東征の話をしたこと。『古事記』にも高千穂宮で長兄の五瀬命と二人で東征の相談をしたことが書かれていますが、中味はそれだけで、この高千穂宮がどこの高千穂宮なのかまるで不明です。宮崎市の高千穂宮(宮崎神宮の摂社)なのか、臼杵の高千穂の里(高千穂神社)なのか、あるいは、その他の場所なのかも、はっきりしません。

 ただ、若三毛野命が出発したのは宮崎市からで、高原町の狭野から宮崎市の高千穂宮へ出てから出発したのだろうと思いますが、その年(甲寅)冬10月5日に諸皇子・船軍を率いてと書かれていて、諸皇子の中に兄たちが含まれているのか、御子だけなのか、これも曖昧です。

 また出発直後の足取りは、宇佐に着くまで記紀に一行の記述もありません。しかし、地元にはそれなりの話が伝わっていて、陸路を湯ノ宮甘漬神社都農神社に立ち寄り、美々津から船出したと伝えられています。美々津までなぜ陸路を行ったのかは不明ですが、臼杵高千穂の里の方へ近づいているのは確かです。このとき高千穂の里に立ち寄ったとの伝承はなく、記紀にも書かれていないのですが、美々津を船出してから立ち寄らなかったとも断定はできないでしょう。


 ほか
の命(みこと)たちは宮崎市ではなく、高千穂町の高千穂宮(高千穂神社)の地に居住していた可能性は考えられます。すぐ兄の三毛野命高千穂神社主祭神に祀られていますし、長兄の五瀬命五ヶ瀬川と関連した名だとも云われるので、兄弟で相談したという高千穂宮は実はこちらの話で、記紀は高千穂宮をひとくくりに説明している可能性もないとはいえません。

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 というのも、『日本書紀』に10月5日に東征に出発したとあるのに、美々津の伝承では、美々津からの出航が旧暦の8月1日になっていて、この日が今でも東征の出航にちなんだ「おきよ祭り」の祭日になっているのです。なので、10月5日の出発日は実際には高千穂町の高千穂宮か、下流の延岡あたりの話とも考えられなくはないでしょう。『古事記』には単に一行は「日向より発たして」とあるだけなので、兄弟が相談したという高千穂宮の特定は困難です。とにかく、兄弟の話などは、河内に着くまで神武天皇の物語からはほとんど窺うことができないのです。

 日向から出発した若三毛野命神武天皇)一行は宇佐に立ち寄り、その地の宇佐津彦・宇佐津姫から歓待を受けました。天神の一族であったのかもしれません。この間にもいろいろな場所に立ち寄ったことが地元では云われているし、速吸門豊予海峡)では珍彦との出会いの話も『日本書紀』には書かれています。

 それから筑紫の方へ回って、岡水門(おかのみなと)の岡田宮に滞在しました。岡水門(岡湊)は遠賀川河口の芦屋にあります。神功皇后の時代に熊鰐が岡の県主(あがたぬし)だった所で、昔から熊族が居住していた所だといわれ、県主は代々「熊」の名を冠しているようです。

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 現在の岡田宮の所在地は北九州市八幡西区黒崎の街にある岡田神社で、岡田宮、熊手宮、八所宮が一所に祀られていて、岡田宮は神日本磐余彦命神武天皇)、熊手宮大国主命少彦名命、それに熊鰐、八所宮は高皇産霊神神皇産霊神を初めとする祖先神らの八柱が祭神です。
 ただ、この岡田宮は何度か移動されているようで、当初の岡田宮は『日本書紀』にあるとおり遠賀川の岡水門付近ではないかと考えられます。ここも神武天皇(もしくは祖先など)とゆかりがあった土地なのでしょうか?

 滞在期間は『古事記』は1年間となっていますが、『日本書紀』では1ヶ月半ほどの滞在です。

 
 それから安芸埃宮(多祁理宮)に向かいます。『日本書紀』では埃宮(えのみや)、『古事記』では多祁理宮(たけりのみや)とあるので、比定地は多家神社広島県安芸郡府中町宮の町)になっていますが、両社は別かもしれません。当地の滞在期間は『古事記』は7年。『日本書紀』は2ヶ月ほどで、ずいぶん差があります。なんでこんなに違うのかとも思いますが。

  多家神社の由緒(公式サイト)


 最後に吉備高島宮に留まります。ここでは仮館(かりのみや)を造って入ったと書かれていますから、とくに居館は用意されていなかったようで、わりと辺鄙な土地だったのかもしれませんね。
 この高島宮の候補地は各地に多くあるため旧跡の特定は出来ていないようで、岡山市南区宮浦の高島神社、岡山市中区賞田の高島神社などが有力視されているとのことです。
 岡田宮から安芸の埃宮へ、埃宮から吉備の高島宮へ移動するにしても、その間にはいろいろな土地に短期間の逗留はしたはずですから、それが多くの伝承地として伝えられているのかもしれませんね。

  『古事記』は8年、『日本書紀』はここに3年留まって「船舶を揃え、兵器や糧食を蓄えて、一挙に天下を平定しようと思われた。」と記しています。しかし、誰の支援もなくて3年間もの食糧、兵器にしても、自分たちだけで調達可能とはとても考えられません。書かれてはいないのですが、やはり各地に協力者は存在したのではないでしょうか。


(つづく)   

どこまで続くか分かりませんが、本年もどうかよろしくお願いします。

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