南国土佐を後にして 都へ来てから幾歳ぞ…
ペキー葉山さんの歌や「よさこい節」で知られる高知市は、関ヶ原の合戦後に山内一豊が入国以来24万石の城下町として栄え、令和の現在も32万5千人ほどの人口を擁する高知県の県都です。
太平洋に向かって開ける高知の自然は、南国にふさわしく、温暖にして明るく、県民の気風も豪放磊落で開放的に見えます。野菜も果物も魚介もふんだんに出まわり、すべてが瀬戸内側よりも早く大きく生育するようです。
市街中央にある40mの大高坂山(おおたかさやま)に築かれた山内氏の高知城は、小高い山上に三層の天守を擁する城郭で、スマートで優美な天守閣の形姿から人気があり、観光客も頻繁に訪れるところです。
高知城の略史
太閤秀吉の没後、土佐の長宗我部盛親(ちょうそがべもりちか)は関ヶ原の戦いで西軍に与したため、結果的に改易になりました。盛親の父は長宗我部元親で戦国時代にほぼ四国の全域を掌握した四国の雄でしたが、羽柴秀吉の四国攻めに敗れて降伏し、秀吉の麾下で土佐一国だけが安堵されていたのです。その後継者とされた四男の盛親でしたが、改易後の大坂の陣にも敗れたため、戦国大名としての長宗我部氏はここで滅んでしまいます。
そこで、改易になった長宗我部氏に代わって、慶長6年(1601)に新たに20万石の大名として土佐に入ってきたのが、掛川城主の山内一豊でした。しかし、長宗我部の家臣らは容易にその領地替えを認めようとせず、しぶとく反抗したそうです。そこで一豊は一計を案じ、反乱者を一網打尽にして処罰するとともに、武士と農民を兼ねた一領具足を土佐藩の郷士に取り立てて解決したといわれています。
山内一豊はその妻・千代女の孝でも知られる武将ですが、当初は長宗我部氏の居城、浦戸城に入ったようです。しかし新しい町を開くには土地が手狭だったため、最初に長宗我部元親が城を築き始め放棄していた大高坂山(おおたかさやま)に目をつけます。
長宗我部氏が大高坂山を放棄したのは、そこが鏡川下流の湿地帶で地盤がわるく再三洪水に遭っていたかったからでした。そこで一豊は土木工事に長けた人材を外部から登用して、3年のうちに本丸・二の丸を完成させました。
ただし、三の丸まで完成したのは慶長16年(1611)のことで、完成の前年にはそこを高知と改名しています。これが高知城の始まりといわれます。
天守閣
高知城も現存12天守のうちで、最初は山内一豊の時代に築かれたものですが、享保12年(1727年)に追手門などわずかの建造物を残して一度、焼失してしまいます。そして、20年後の延享4年(1747)に旧状に復して再建されたと伝えられていて、この再建天守が現在の天守閣と思われます。
高知城の天守閣には修学旅行で一度上ったことがあるのですが、その後はもっぱら下から見上げるだけで、どうしても近くの日曜市を訪れてしまいます。
幕末の土佐藩人
土佐の山内氏は入国当初から一国一藩一氏で15代続いています。15代藩主は山内容堂でした。
幕末から明治にかけての土佐藩に関わる著名人としては、吉田東洋、後藤象二郎、武市半平太、中岡慎太郎、坂本龍馬、板垣退助、岩崎彌太郎などがいます。
中でも龍馬たちの活躍はよく知られ話題になりますが、それに勝るとも劣らない活躍をしたのがジョン万次郎(中濱万次郎)で、薩摩藩にも土佐藩にも幕府にもアメリカにもよく通じて重用されています。
それ以前に救助されてアメリカに渡り、勤勉努力。アメリカの捕鯨船で世界各地を航海し、以後もアメリカ大陸や小笠原諸島を往来するなど、元は土佐の漁師なのに、その英語力と実際的な知識、人並外れた行動力は特筆すべきものがあります。
過去にも目的を持ったり漂流して唐や朝鮮半島、東南アジア、ロシア、ヨーロッパに渡った日本人はいますが、その行動範囲の広さと周囲の人脈からいうと、万次郎こそ近代日本で最初の国際人と言っていいのかもしれません。
その他 余録
帯屋町商店街 "ヨサコイ鳴子踊り"のデモ
商店街はいつもにぎやか。5月ごろは鰹のたたきがおいしい季節です。
追手前筋 高知城公園から続く大通り
高知県立追手前高校や土佐女子中高校があるメインストリート。
日曜市は、この通りの片側でやっています。
夏には"ヨサコイ祭"の会場にもなります。
高知はいつ行っても明るくて楽しいところです!!
今は行っていないですけどね。
日曜市の蘭