鄙乃里

地域から見た日本古代史

錦帯橋と鵜飼の城 岩国城

 岩国城岩国領

 岩国城山口県岩国市の横山山頂に江戸時代初期に築かれた城です。
 錦帯橋の背後に横たわる城山のてっぺんに美しい南蛮造りの天守閣が建っています。

 当時、毛利家の当主であった毛利輝元は、関ヶ原後に長州藩から3万石を割譲し、岩国領として分知しました。そこへ輝元の従兄弟にあたる吉川広家(きっかわひろいえ)が出雲月山富田城(とだじょう)から岩国へ移り、慶長6年(1601)から横山に築城を開始。7年後の慶長13年(1608)にようやく完成させたのが岩国城の始まりです。


 しかし、それから数年を経過した元和元年(1615)幕府により一国一城令が発令されたため,残念なことに完成後わずか7年という短期間で城は解体されて廃城となってしまいました。幕府の認可により造られた城だったようですが、方針転換なら仕方がありません。岩国城実際には長門でなく周防の城なのですが、長州の支藩である長府藩櫛崎(くしざきじょう)が同年に廃城になったので、釣り合いを取るためだったと言われます。毛利氏の城も、それ以後は本家の萩城だけということになりました。


 そのため吉川広家は麓の居館を陣屋として岩国の町造りを行います。

 

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  山上の天守 白壁が美しいです


 岩国領主吉川氏にとって萩藩は毛利の宗家です。しかし、宗家や一族間の関係はこの時期、かなり微妙だったようです。

 関ヶ原合戦の際に毛利輝元は西軍の総大将として迎えられていました。が、吉川広家は東軍の勝利を信じて徳川方に内通していたとのことです。毛利家を何とか残したいとの一念から毛利軍の前方に陣取って動かなかったので、毛利軍が参戦できなかったという事情があったようです。それが結果的によかったのかどうか。毛利氏としては吉川氏に恩は感じていたとしても、内心では苦々しい思いを抱く者もきっといたに違いありません。


 徳川幕府のほうでは周防岩国領は長州の支藩と認識していたようですが、毛利氏は表向きは吉川氏をあくまでも家臣として扱い、支藩ではなく岩国領と主張したようです。ほかにも、一族の間で仲がよくなかったとか言われますが、それも幕末には和解しています。岩国領も、明治元年になってから岩国藩として正式に認められています。

 そうした事情があり、 廃城から約350年間は、岩国城跡は廃墟になっていました。しかし、ようやく昭和37年に市民の手によって今の4層4階の天守閣が再建されたということです。再建天守閣は旧址から少し離れた場所になります。


 岩国の町造り

 岩国の町は錦帯橋付近の錦川(にしきがわ)両岸岩国駅周辺に建物の密集地が二分されています。これは錦帯橋周辺がもとの城下町だったからでしょう。それに対して岩国駅などの海岸に近い市街地はあとから開けた町だったと思われます。

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 月山富田城12万石からの転封により大幅に減封になった吉川氏は財政が逼迫。自領の経営に困窮したため、錦川三角州の堆積を利用した耕作地の開発に努め、その結果、今日のような平野が開かれたといわれます。

 

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  山頂の城から見下ろした岩国城下と錦帯橋
  錦川の手前側に吉川氏邸や役所など公の施設があり、対岸に中級・下級の武家屋敷があったようです


 錦川河口や海岸部に新田開発を行うことで岩国領の後世の実高は6万石にも10万石にもなったと言われます。JR岩国駅
東海岸一帯は現在、工場地帯で、その南を流れている錦川下流今津川門前川の間が中州になっていて、そこには空港や基地がありますが、このあたりの土地は、ほとんどが江戸時代からの干拓によりできた新開地といわれます。

 

 錦帯橋

 木造製のアーチ橋として有名な錦帯橋は、錦川に架けられた半円形5連の橋です。

 吉川氏は錦川の右岸に陣屋や役所を置き、対岸に中級・下級武士の屋敷を配置したそうですが、当初の橋は何度架け替えても出水のたびに流されて、家臣の往来にも渡船を使ったり登庁できなくなったりして、藩政に支障をきたしていたそうです。


 そこで橋梁の流出を防ぐため、3代領主吉川広嘉の延宝元年(1673)に当時の最高の技術を用いて架橋させたのが錦帯橋の始まりと伝えられ、急流にも耐えられるような独自の工夫を施しています。

全長194m,幅5mの木橋のうち、両端の2連には橋脚があるが、中流にあたる3連の木橋には橋脚がなく、半円を描く橋梁は上から圧力がかかると反発力によってかえって引き締まる設計になっている。 (人文社『郷土史料事典』)

 

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 たしかに…。これだけの多人数が乗ってもびくともしないのだから、先人の知恵はすごいです

 
 錦帯橋にはそれ以後も多くの改良が加えられ、以来276年間にわたるたびたびの出水にも破壊されることなく持ちこたえてきたそうです。しかし
昭和25年の台風では戦中・戦後の整備が不十分だったからなのか、激しい濁流に呑み込まれて、ついに流失。昭和28年に1億2,000万円の巨費をかけて再建されたということです。


 最近では平成13年(2001)に3年の歳月をかけて全ての木造部分が架け替られていて、ニュースでも話題になっていました。いくら頑丈な橋でも歳月が相手では勝てませんよね。今後も橋のメンテナンスは欠かせないでしょう。

 

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 城へ上がるロープウェイがあります。徒歩でも登れますが、時間もかかるし、しんどいです
 
 錦川錦帯橋付近では夏期になると鵜飼も行われて、岩国の夏の風物詩になっています。

 錦帯橋と鵜飼と冬の雪景色、春と秋は桜と紅葉の岩国城…。Good!ですね。

 

 


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