終戦後20年の昭和40年頃。このころは広島もようやく復興を果たし、平和公園にも観光客が訪れるなど、おだやかな空気が漂っていました。
しかし、平和公園の向こうに、高層ビルなどはまだ見られない時代で、原爆病院に、原爆症で苦しむ人の数は多かったのです。
原爆の子の塔
原爆の子の塔は、原爆症のため折り鶴を折り続けながら病没された佐々木禎子さんをモデルにしているといわれます。
塔の制作者 東京芸術大学教授 菊池一雄氏
今はどうなっているか分かりませんが、千羽鶴は、最初は塔の内部に下げられていたんですね。…こんな風に。
後年には、近くのガラスケースか何かに納められていたような気もします。ブースというのでしょうか。
この塔の下の千羽鶴は一度、燃やされたことがあったようで、以前ニュースで聴いた覚えがあります。
原爆資料館(現在は広島平和記念資料館という)に入っている間は、別世界にいて時間が止まった感じで、気持ちが締めつけられました。
1955年に開館された資料館 今日までに何度か改修されていると思います
小学生のころ、映画「原爆の子」(新藤兼人監督、乙羽信子主演)を学校の引率で観ていたし、それまでに原爆被害の写真集も少しは見ていたので、初めての人よりはショックが少なかったと思うのですが、それでも入館の前後では、明らかに気持ちが違っていたことを憶えています。
平和の鐘
平和の鐘(常設) 香取正彦作
これは昭和39年の建立かな? 近くにあります。
子どもたちがいっしょに撞いています。
今なお続く核の存在と脅威
戦後76年を迎えようとしている現在でもなお、核の非情と脅威は縮小することなく、抑止力の美名のもとに続いています。核拡散の危険性も以前より増しています。
戦後の平和を考える(1)
人類の無知、高慢、冷酷、暴力、弱さなどを「愚かさ」と表現するなら、この「愚かさ(無明)」が消える日はいったいあるのでしょうか。
そのために多くの命と魂が傷つき、苦しみ、犠牲になっているとしても、指導者が省みることも改めることも出来ないなら…。
いくら科学や経済が進歩・発展し、国力が増大しても、そこにあるのは幸福などではない。さらなる差別と敵対と軍事力強化への道だけです。人が生きている意味などあるのでしょうか。