鄙乃里

地域から見た日本古代史

長崎の鐘はいのちのひびき 浦上天主堂と如己堂

 長崎国際文化会館

 昭和20年8月9日、広島に続いて長崎にも原子爆弾が投下され、長崎は一面の焼け野原と化しました。多くの人々が命を失い、その後も原爆症に苦しみました。

 その原爆による惨状を広く伝え、核の廃絶、平和と復興の願いを込める意味から、昭和30年に爆心地を望む丘の上に建てられたのが、長崎国際文化会館でした。

 

 国連ビルを模した地上6階、地下1階、鉄筋コンクリート造りの、当時としては超近代的な文化施設で、上階には市立博物館や原爆資料室が併設されました。設計は、早稲田大学教授だった佐藤武夫氏。

 

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 この長崎国際文化会館は、41年後の平成8年(1996)被爆50周年事業に際してすでに解体されていますので、今は見られません。中にあった原爆資料室は、代わりに建て替えられた現在の原爆資料館のほうに移動されています。



 浦上天主堂

 最初の天主堂は大正3年(1914)に完成。しかし、原爆で全壊。昭和34年(1959)に再建されました。

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 昭和39年秋の 長崎市(長崎国際文化会館から) 中ほどに浦上天主堂が見えます
 
爆心地天主堂から南西へ500mの地点です


 写真はその天主堂で、昭和56年(1981)にはローマ教皇ヨハネ・パウロ2世も訪問されてい
ます。



 長崎市立永井図書館と如己堂

 永井図書館は現在の長崎市永井隆記念館」の旧建物です。

 永井博士が作った私設図書館「うちらの本箱」が、ブラジル在留邦人らの寄金につながり、昭和27年(1952)12月に写真の長崎市立永井図書館」が完成。昭和44年(1969)には「長崎市立永井記念館」と改称。博士の遺品等もあわせて展示するようになりました。

 現在ある記念館は、平成11年(1999)にそれが全面改築されたもので、隣に永井隆博士が暮らし、著作活動などを行っていた二畳の如己堂(にょこどう)があります。


 昭和45年(1970)には、博士が幼少期を過ごした島根県雲南市三刀屋町(みとやちょう) にも「永井隆記念館」が開館しています。姉妹館ということです。

 

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 長崎市立永井図書館 右下の説明板は如己堂について書かれています


 永井隆博士明治41年(1908)島根県松江生まれ、幼少時代を飯石郡飯石村(雲南市三刀屋町)で過ごしました。

 のちに長崎で医師になり、放射線医学の研究中に白血病になります。さらに原爆でひん死の重傷を負いましたが、自分を顧みることなく負傷者の治療に奔走し、医師としての責任を果たしました。その後、一命を取り留めるも、原爆で妻を失い、自分も病に伏してしまいます。

 それでも、二人の子どもたちと二畳一間の家で寝起きしながら、今度は執筆活動を通して被爆の惨状と平和の大切さを病床から世界に訴え、被爆の人々を励ましつづけました。

 その博士の起居の場でもあり活動の拠点でもあった二畳の家が「如己愛人」の言葉から「如己堂」と名付けられて、現在も保存されています。



 長崎の鐘

 朝ドラの『エール』の中で藤山一郎が歌った長崎の鐘は、原爆で全壊した浦上天主堂の瓦礫の中から見つかったアンジェラスの鐘のことで、永井博士の著作長崎の鐘からサトウハチローが作詞、古関裕而が作曲し、永井博士自身もこの歌を聴いて感動されたという話があります。

  新しき朝の光のさしそむる荒野にひびけ長崎の鐘

長崎の鐘」の歌を聴いたあとで、永井博士が詠んだ短歌と伝えられます。

 永井博士は昭和26年(1951) 5月1日に43歳の若さで他界されました。
 『長崎の鐘』の歌詞を読むと、博士の人柄がそこはかとなく伝わってきます。


 参考記事

永井隆博士が亡くなって5月1日で70年を迎える。博士の遺志を継ごうと、遺族やゆかりの医師らが絶版となった「長崎の鐘」の英語版の復刻を目指している。
                 朝日新聞デジタル版2021年5月1日)



 長崎平和公園

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 平和祈念像 昭和30年8月8日完成 長崎出身の彫刻家 北村西望
 



 戦後の平和を考える(2)

 大東亜戦争・太平洋戦争の真の原因が何であったか、一概に言いきれるものではありません。しかし、それは自国の兵士や国民はもとより、旧日本軍が展開した各地において戦闘その他のため多大の損害を与え、後世に残る人的・物的被害をもたらしました。戦後の日本は廃墟の中から奇跡的な復興を遂げましたが、今尚、戦争の傷跡は完全に癒えてはいません。

 本来の「平和」は戦争の対極にあるべきものですが、現在の平和はいつまた戦争へと発展するかもしれない非戦状態にすぎず、単なる相対的な状況を表しているにすぎません。

 現在のコロナ騒動も、広い意味では戦争といえます。目には見えない細胞レベルの戦争ですが、細胞が人体を構成している以上、人命と社会に甚大な影響を及ぼします。ウイルスはたしかに向こうから侵入してきたのですが、誰かが変なことをして隔離を解いたからに違いありません。

 とはいっても、いったん戦争になると、それまでの平穏な日常や、もろい土壌の上で営々と繁栄を築きあげてきた文明などたちまち危機にさらされてしまうのが、自然界のシビアな現実なのです。自由と生存の否定、それが戦争の本質であり、最新兵器を使用した実際の人類の戦争ともなると、はるかに不便で残酷で悲惨な結末になるでしょう。


 真の平和は人の心が変わらないかぎり訪れることはありません。それは古来の最も単純な原理ですが、人類にとっては、最も遠くて困難な現実でもあるのです。
 平和な世界はあらかじめ保障されているものでも、恵み与えられているものでもないことを胸に刻んでおく必要があるでしょう。人類が努力して一歩一歩築き上げていかなければ決して手に入らないものなのです。 


 イギリスの詩人にして聖職者でもあるジョン・ダンの『瞑想録』に、次の名言があります。一部はヘミングウェイの代表作のタイトルにもなっているのですが。

 問うなかれ
 誰(た)がために鐘は鳴るやと 
 そは 汝(な)がために鳴るなれば

 つまり、戦争もコロナも、自分には関係がない人など、ひとりもいないということなのです。
          
 世界で唯一の被爆国である日本の広島と長崎の「鐘」の音が、平和への祈りとなって世界の人々の心に共鳴する日が、少しでも早く訪れんことを希求するものです。そのときはじめて、犠牲者の御霊(みたま)も、天国で少しはやすらいでくれるかもしれませんから…。






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