鄙乃里

地域から見た日本古代史

回天の姿見ゆなり 大津島訓練基地

 大津島
 大津島山口県の徳山沖にある細長い島で、旧日本海軍回天訓練基地があった島として知られています。

 

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 昭和44年(1969)の訪島時には、徳山港から市営の巡航船が通っていました。

 昭和46年12月の発着時間を見ても、粭島(すくもじま)経由の便もありましたが、ふつうは徳山港から黒髪島を経由し、大津島の瀬戸浜・刈尾・天ヶ浦を巡って馬島港に着くので、1時間30分はかかったものです。

 現在は大津島巡航(株)が運営するフェリーと客船があり、船や航路によって所要時間に違いがありますが、18分から44分で馬島港に着くらしく、ずいぶん速くなったものだと驚かされます。

 そのころの徳山湾はどこまで行っても油まみれでした。海面に重油がてかてかと光り漂っているのです。環境保護に厳しい現在では、そんな海は滅多に見られません。そのころまでは全国でもヘドロの海が多く漁業補償などで問題視はされていたのですが、環境に対する意識が今ほど高くはなかったのです。きれいな海に戻るには何年もかかったと思います。

 

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 馬島港 向こうが小学校だったかな(

 馬島港に着いて少し歩くと、小学校の横に若桜の並木があり、回天の勇士たちの名を記した白い標柱が並んでいました(は石碑になっているかも)。

 馬島と大津島は別の島でしたが、一つに連結されたそうで、馬島も大津島の一部になっています。回天の基地は境界の大津島側にあります。

 桜の並木を通り抜けると回天記念館がありました。訓練基地跡の岡の上にある、当時はまだ完成して1年足らずの真新しい建物でした。現在はさらにリニューアルされています。

 

 回天記念館(かいてんきねんかん)

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 回天」とは「回天興国」を意味し、太平洋戦争末期の戦局の不利を何とか立て直したいとの悲願のもとに考えられた特攻作戦のひとつです。

 具体的には、志願の青年隊員らが爆薬を積んだ小型の潜水艇を操縦して敵艦に激突し、自らの生命を犠牲にして打撃を与えるための人間魚雷のことです。したがって、この魚雷のことも「回天」といいます。小型潜水艇はすでに真珠湾攻撃の時にも使われていましたが、回天の場合は、航空機の特別攻撃隊と同じ目的で、あくまでも最後の防衛手段として考え出されたものでしょう。

 そのうちに大津島の基地だけでは間に合わなくなったので、近隣の平生(ひらお)に同様の訓練基地ができ、大分県大神(おおが)にも基地が設けられました。大津島はその発祥の地です。

 因みに哲学者の上山春平さんも、光基地の隊員として回天に搭乗していたという話です。

 

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 回天記念館に展示された遺書や手紙を見ると、悲痛というよりは、迷いながらも、むしろ清明心に裏付けられた快活な精神を感じさせるものが多く、それだけに、かえって深い感慨なくして読むことができないものです。

「日本に如何なる危難襲うとも、必ずや護国の鬼として大日本帝国の楯とならん。身は大東亜の防波堤の一個の石として南海に消ゆるとも魂は永久に留まりて故国の山河を、同朋を守らん」

「それにつけてもいたいけな子供らを護らねばなりません。私は玲ちゃんや美いちゃんを見る度にいつも思いました。こんな可愛い純真無垢な子供を○○からぜったいに守らねばならない。私は国のためというよりもむしろこの可憐な子供たちのために死のうと思いました」


「いろいろ有難うござゐました。では征きます。心気爽快。何一つ思ひ残すことはありません。あとのことはよろしくお願ひ致します」

  中には訓練中に事故死した隊員もいますが、それぞれに辞世の歌を残しています。

君が為たゞひとすぢの誠心に当りて砕けぬ敵やはあるべき

国を思ひ死ぬに死なれぬますらをが魂留めて護らんとぞ思ふ

死せんとす益良男子のかなしみは留め護らん魂のむなしき

 当時のことなので皇国史観の影響があるのは仕方ないですが、自分のことは無に捨てて、国や同朋(どうほう)のことを思う一念で貫かれているのも事実です。大和魂というべきでしょう。


  昭和19年11月に最初の回天特別攻撃隊”菊水隊”が西太平洋のウルシー環礁に出発して成果を上げ、次に金剛隊、千早隊などが順次編成されます。しかし、人間魚雷“回天”は基本的には帰還しないものなので、突撃したら爆発して命を失います(戦闘ですから当然、敵艦船の乗員も死にます)。戦地に散った隊員だけでなく、整備員や、それ以前の試験訓練中に瀬戸内海で事故死した隊員も相当数いて、手許の古い資料では回天搭乗員が103名、整備員が35名の全部で138名とありますが、現在の他の記事を見ると145名が戦死・殉職となっています。いずれも二十歳前後の若者ばかりでした。

 

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       回天顕彰会のパンフレットより


 潜水艦の魚雷人間魚雷のいちばんの違いは積載できる弾薬量にあったようです。人間魚雷は93式魚雷を搭乗員が操縦できるように改造したもので、潜水艦発射の魚雷に比べて2倍の爆薬を積めるので、命中すると敵艦に確実にダメージを与える確率が高くなるのです。

 人間魚雷はイ号潜水艦などの甲板に複数搭載されて敵に接近すると、敵艦の進路や速度をあらかじめ設定し、望遠鏡(潜望鏡)で素早く確認してから突撃するとのことです。ひとたび発射されると、命中しても外れても、もう帰艦することはありません。

 操縦室の高さは1メートルほど。爆発すれば一瞬ですが、逸れるとどうなるのか…航続時間(燃料)がまだ残されていれば再挑戦も不可能ではなかったようですが、実際には困難だったのではないかと思います。考えると悲壮すぎて想像すら出来ません。


 発射訓練場 跡

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  試射場跡 この右にある建物の下側に回天の発射場があったように記憶しています 

 人間魚雷を整備場からトロッコで運ぶトンネルを抜けると試射場のあとがあります。トンネルは照明があっても半分は壊れて役に立たず、ほとんど暗闇同然でした。


 このあたりの海は徳山湾内と違って青々としてきれいです。のんびりと釣り糸を垂れた数人の釣り客もいます。

 海上に剥き出しのコンクリートの上に座って、遮るもののない陽射しを浴びながらじっと海面を見つめていると、こころなしか、訓練中や、遠い南の海に散っていった回天の勇士たちの姿が見えてくるように思えました。

大津島瀬戸のうつみを

  あかあかと沈みゆく日に

回天の姿見ゆなり

  忘られぬ君を偲べば

   胸迫る深き思いよ

      (田中彰作詞「回天追悼の歌」3番) 

 大津島では毎年、回天の慰霊祭が開催されています。かつての搭乗員の方も戦後は複雑な心境を抱えて生きてこられたのでしょう。が、ご高齢でもあり年々、出席が難しくなっているように見受けられます。 


 戦後の平和を考える(3)

 特攻作戦は人により評価が異なるでしょうが、このような若者の犠牲的精神のもとに今日の私たちの発展と平和な暮らしがあると受けとめることは、特攻の賛美や軍国主義回帰への道によるのではなく、むしろ厳しく内省しつつ平和を守る道によってこそ、彼らの魂も安らげるのではないかと考えています。





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