鄙乃里

地域から見た日本古代史

空白の150年を求めて~『日本書紀』4、5世紀の実年代は?

日本書紀』の年代延長と4,5世紀の年代 

 『日本書紀』の古代天皇の年代が允恭天皇の時代あたりから過去へ大きく延長されていることは了解されるが、それがどのような形で、どのように処理されているのか細かく検証していくことは、けっこう骨の折れる作業でもある。

 神功皇后摂政から始まる4世紀の年代についても、干支2巡分が繰り上げられているとの指摘があり、記紀の内容や他の情報を総合的に検討してみると事実のようである。

 それなら『日本書紀』で201年から始まっている神功皇后摂政開始年は当然、321年からの期間に改められるべきだろう。

 ただ、それでも『日本書紀』が神功摂政開始年を201年としている以上は、その延長された120年分が以後においてどのように配分され、どのような形で埋め合わせされているのか、その過程をよく観察してみることは、古代史研究の上でも、それなりに有意義なことではないだろうか。


 日本書紀』の編年 

 そこで、まず『日本書紀』の編年に忠実に従って、それ以後の4~5世紀の各天皇の年代がどうなっているかを書き出してみよう。

神功皇后 201辛巳から269己丑
応神天皇 270庚寅から310庚午
空位2年)
仁徳天皇 313癸酉から399己亥・・・・・・『古事記崩御年 丁卯(427)
履中天皇 400庚子から405乙巳・・・・・・『古事記崩御年 壬申(432)
反正天皇 406丙午から410庚戌・・・・・・『古事記崩御年 丁丑(437)
空位1年)                                             
允恭天皇 412壬子から453癸巳・・・・・・『古事記崩御年 甲午(454)
安康天皇 454甲午から456丙申・・・・・・『古事記』記載なし        
雄略天皇 457丁酉から479己未・・・・・・『古事記崩御年 己巳(489)
清寧天皇 480庚申から484甲子・・・・・・『古事記』記載なし        
顕宗天皇 485乙丑から487丁卯・・・・・・『古事記』記載なし        
仁賢天皇 488戊辰から498戊寅・・・・・・『古事記』記載なし        
武烈天皇 499己卯から506丙戌・・・・・・『古事記』記載なし        
継体天皇 507丁亥から531辛亥・・・・・・『古事記崩御年 丁未(527)

 これを見ると5世紀の8人の天皇には1世紀しか必要としていないのに、初めの3代の摂政・天皇だけで2世紀もの期間を費やしているのが一目瞭然である。こんな年代配分は普通はあり得ない。

 『日本書紀』が考えている年代を見ると、まず神功皇后摂政期間の69年をそのまま直列に挿入していることが分かる。
 実際の神功皇后の時代と応神天皇の時代は同時期であり、一部は仁徳天皇の時代とも重なっていたと思われるが、ここでは神功皇后の摂政期間のみを独立させて、直列につなぐことで、120年のうちの69年を苦もなく埋め合わせしている。


 日本書紀

神功皇后摂政(在位69年)→ 応神天皇(在位41年)→(空位2年)→仁徳天皇(在位87年)

 以上で、仁徳天皇崩御年の399年に到達する。

 しかし、実際には
  ←――――――――神功皇后摂政期間(69年)―――――――→
     ←――応神天皇―――→(空位2年)←―――――仁徳天皇――――――→

 このようになっていたはずなので、つまり、最初に実体のない架空の年数(69年)をそのまま挿入して、120年のうち、まるまる69年を稼いでいることになる。

 

 その次には、応神天皇仁徳天皇の在位期間を膨らませて23年を埋め合わせしている。23年についてはなぜ?との疑問もあるだろうが、これはのちに説明するように仁徳天皇の実際の崩御年を(筆者が)427年に仮定しているからである(51-28=23)。

 たとえば『日本書紀』の設定でも、201年から427年の間で120年延長の矛盾が解消されていればあとの年代はうまくいったのだが、過去へ120年も延長した結果、応神の年齢(110歳)と仁徳の在位期間(87年)があまりにも長大になりすぎたため、399年までが限度だったのではないかと思われる。そのため400年から427年までの28年間が、まだ埋め合わせできないままで残された。

  その結果、次の履中天皇の即位年が400年に繰り上げられることになり、以後の反正・允恭へとそのまま続いている。要するに、これら三代の天皇の即位年は『日本書紀』ではすべて28年前倒しにされているわけである。
  しかし、そのうちどこかで帳尻りを合わせなければ、それ以後の天皇の在位年に悪影響が発生するのは避けられない。

 最後尾の継体天皇507年即位は、現在のところ実年代として多数の人から支持されている。その前の『日本書紀』中の各天皇在位年も記事内容とぴったり一致している。つまり、安康天皇以後は下手に動かすことが出来ないのである。そこで、允恭天皇の在位期間を28年延長して、年代の調整を計ったのではないかというふうに考えられよう。

 この允恭天皇の在位期間は『日本書紀』では42年と比較的長く設定されているが、父の仁徳天皇が長期政権の上に、次に兄二人の天皇がいて、允恭天皇自身も壮年まで病弱だったことなどを考慮すると、42年は長すぎる期間といえないだろうか。「允恭紀」では記事の年次がとんでいる箇所も多いことから、実際は28年を差し引いた14年ぐらいではなかったかと推測する。


 仁徳天皇崩御年427年の根拠

 次に、これまでの年代推定の基準となる仁徳天皇崩御年を、なぜ427年に仮定したかについて根拠を説明してみたい。

① 5世紀中国の南朝朝貢した「倭の五王」に関連する記録が『宋書』等に残されているが、それには以下のようになっている。

413 東晋 安帝    義煕9年癸丑  倭国東晋に貢献(『晋書』安帝紀
   (東晋なので倭王名は書かれてないが、年代からは讃と推定される)                            
421 宋    武帝 永初2年辛酉   詔に曰く、倭貢献、除授を賜う(倭国伝)
425 宗 文帝    元嘉2年乙丑   また司馬曹達を使わし、表を奉り貢献(同
上記の年代に数回にわたって貢献できるのは即位期間の長かった仁徳天皇(オオ讃ザキ)しかいない。 (427  丁卯         仁徳崩御
 
430 宗 文帝 元嘉7年庚午      倭国王(?)遣使奉献(文帝紀
 この年には、それまでの讃の名が消え、讃の貢献が終了していると思われる。「文帝紀」の記事には新しい王名はないが、おそらく履中天皇ではないだろうか。六人の天皇がいて履中天皇だけ貢献がないというのは不自然(実際は倭の六王だった)。
(433   壬申         履中崩御
 
438 宗 文帝    元嘉15年戌寅   讃が死んで、弟が立ち、遣使貢献(倭国伝)
実際は讃→履中→珍となるところが、先の文帝紀の記事に(履中の)王名が抜け落ちていたため、「倭国伝」で珍が讃の弟と間違えられた可能性が大。
(438 丁丑        反正崩御
 
443 宗 文帝 元嘉20年癸未 倭国王遣使奉献 安東将軍、倭国王爵位を叙する(倭国伝)
451 宗 文帝    元嘉28年辛卯    倭王を6国諸軍事、安東将軍、倭国王とする倭国伝)
? 済死す(崩年は不詳)
ここで珍と済の関係が記されていないとの指摘があるが、だからといって別系とはいえないだろう。すべて倭王倭国王になっている。
(453癸巳       允恭崩御
 
460 宗 孝武帝 大明4年庚子    倭国遣使奉献(孝武帝紀)
462 宗 孝武帝    大明6年壬寅    倭国王世子を安東将軍、倭国王に叙する(倭国伝、孝武帝紀)
460年の奉献が倭王興と思われる。それに対して462年に爵位が授与された。 
倭王興の年代が『日本書紀』『古事記』の安康天皇の年代と一致しない点を検討する必要があるが、「倭国王世子」の倭国王は「済」のことで、「興」がその「世子」となっているのは、奉献当時は「興」が倭国王ではなかったからではないか? つまり、倭国王」の時代に「興」の奉献を行った?
 
?     興が死んで、弟が立ち、7国諸軍事、安東大将軍、倭国王自称(倭国伝)
477 宗    順帝    昇明元年11月丁巳    倭国遣使奉献(順帝紀 
 478 宗 順帝    昇明2年5月戌午  倭国王遣使上表奉献 6国諸軍事、安東大将軍、倭王爵位を叙する(倭国伝、順帝紀
479    南斉 高帝    建元元年己未     新たに6国諸軍事、安東大将軍に進め 、倭王の号を鎮東大将軍とする(『南斉書』倭国伝)
477年は王名が記されていないが、雄略天皇の年代から武と考えられる。
雄略天皇の崩年は『古事記』は489年とするが、それ以後の天皇の年代から『日本書紀』のほうを採用。(479 己未   雄略崩御


 倭王興の奉献年代が少し気になるが、これらを見ても、代々の朝貢記録と天皇の在位年には共通性があり、425年ごろに仁徳天皇が存命だったことは確実で、それが430年にはすでに名がないことから、『古事記』の崩年干支の427年を仁徳天皇崩御年として仮定してみたわけである。

 『古事記』の干支がどれだけ信憑性があるかわからないが(この時期に限れば)427年に仮定すると、次の履中天皇反正天皇の干支も『日本書紀』の在位期間と比べておおむね一致している(履中の在位期間が『古事記』では一年短いような)。
 しかし、『古事記』の干支を除外しても、仁徳天皇崩御年が425年から429年の間だったことは、ほぼ間違いなさそうで、427年はその平均値になるだろう。


②『日本書紀』には、応神天皇の3年条に百済の阿華王(あかおう、三国史記385~392)が位に就いたこと、16年条に阿華王が薨じて直支王(ときおう、三国史記405~420、『日本書紀』は414年薨去)が立ったこと、25年条に直支王が薨じて久爾辛王(くにしんおう、三国史記420~、『日本書紀』は414~)が即位したこと…など、応神39年(428)までに百済王関係の記事が掲載されている。

 しかし、応神天皇がこんな時代まで長命のはずがない。もし事実であれば次の仁徳天皇在位期間を50年と仮定しても、すでに西暦480年近くになり、残りの20年で8人の天皇をどう配置すればいいのか。仁徳天皇の御世を30年に短縮しても、残り40年に8人を入れるのはとうてい無理な話。雄略天皇だけでも23年かかっている。つまり、応神天皇のこれらの外交記事はすべて、実際は仁徳天皇時代の話なのである。「讃」の応神天皇説などはゼロに等しいし、履中天皇でもない(広開土王碑の「倭の渡海仁徳天皇の時代としてよい)。


 応神天皇仁徳天皇

 歴史書というものは年代だけを単に過去へ延長すればいいというものではない。それに合わせるためには実際の出来事や事績もいろいろと振り分けなければいけないはずである。そのほかにも外交記録との年代調整が欠かせなくなる。その結果として、各記事の年代が前後したり、応神の記事が仁徳へ、仁徳の記事が応神へ移動したりすることもあっただろう。両天皇の記事がそのまま重複している箇所さえいくつかあるようだ。そのため応神と仁徳は同じ天皇ではないかと疑われたりもしているが、もちろん別人である。
   
 応神天皇の正確な在位期間は把握できないのが実際のところである。それでも中には363~394年とする説もある。この説は『古事記』の崩年干支を基本に構成されている。たしかにその干支が正しければいいが、4世紀は『日本書紀』だけでなく『古事記』も年数が大きく延長されているのだから、この場合の干支はまったく当てにならないのである。

 『古事記』では応神天皇の年齢が130歳にもなっている。『日本書紀』の110歳は、事実とは異なっていても計算自体は単純だ。神功摂政期間69年に応神在位期間41年を足せば110歳になる。ところが、『古事記』の130歳は何を意味しているのかまるで見当がつかない。

  先の説によると応神363年即位の干支は癸亥になり、その前年は壬戌で、『古事記』の仲哀天皇崩御年の干支に当たる。つまり『古事記』は『日本書紀』のように「神功紀」を置かないで、仲哀天皇から直接、応神天皇につないでいることになる。

 
 前説に従って過去へ遡上すると、

 応神天皇崩御(394)―――仲哀天皇崩御(362)―――あるいは(302)―――(242)

 誉田別命の誕生は仲哀天皇崩御年の12月のはずだが、これでは年齢が余るどころか、どこまで行っても130歳にはならない。だから、このような干支はまったく信用が出来ないだろう。

 それでも130歳と書いているには何か理由があるのだろう。その第一は年代を延長しているからだが、察するところ、もう一つの理由としては『古事記』が神功皇后摂政期間(69年)を設定しないで、その年数をそのまま応神天皇の年齢に繰り入れているのだと思う。それでも足りない分は、仁徳天皇の時代と重複している年数が20年ぐらいあるのではないか。そうすると(69+41+20で)130年になる。このように、とにかく『古事記』は応神天皇の年代を長く取っているのが特徴だ。

 これらをみても、空白の4世紀を考える場合、神功皇后応神天皇仁徳天皇の年数が大きく過去へ延長されていることを、常に忘れてはいけないのである。


 問題は応神天皇の即位年

 仁徳天皇崩御年(427年と仮定)以降の5世紀の天皇については前述したとおりだが、問題は神功皇后から仁徳天皇間の正しい即位年がまったく不明という点にある。実際の年代をぼかして知らせないというよりも、年数延長のため記すことが出来なかったのだろう。

 それでも干支二巡分(120年)が過去に延長されているのなら、120年を差し引いて修正すればいいわけで、それなら神功皇后の元年が321年になるのは正しいのではないか。

 ところが、肝心の誉田別命の即位年がはっきりしない。まさか270年の庚寅をそのまま持ってきて、330年、390年とするわけにはいかないだろうし、また、その崩御年が応神41年といわれても、即位年が不明なので西暦には直せない。本当かどうかさえ分からない。そのため、次の仁徳天皇の即位年までが不明のままで確定できないのである。

 したがって4世紀の皇太后天皇については、321年から427年の大枠の間で神功・応神・仁徳の年代を配分するしかないのが実際である。ところが、配分のためのヒントさえほとんどないので、あえて設定しても、結局は恣意的な推測の範囲内に留まらざるをえない。


 それでも何とか想像を膨らませてみようとは思う。
 但し、神功皇后摂政単独69年説は論外である。摂政は君主が空白だったり、幼年だったり、病気だったりした場合に一時的に政務を執るための制度で、天皇が即位すれば必要ないし、聖徳太子のような場合でも補佐はしているが推古天皇は即位していた。

 したがって、神功皇后摂政期間のどこかでは誉田別命が即位したと考えるのが常識である。そうでなければ神功69年の期間、誉田別命はずっと皇太子のままだったわけで、70歳にしてようやく即位することになる。その場合の神功皇后は、もはや摂政ではなくて天皇だ。

  『日本書紀』は百済王の即位年と倭王の年代を整合させるために、いつのまにか「応神紀」を勝手に120年繰り下げて適当につじつま合わせをしているようだ。相対年代をうまく調整しているから、390年が応神天皇元年であるかのように錯覚する人がいるかもしれない。しかし、390年が元年なら『日本書紀』の41年を在位期間とした場合430年の崩御になる。そうすると、先述のように5世紀の天皇の年代がまるでおかしくなる。以後の天皇をどう配置すればいいのか見当さえつかなくなる。『日本書紀』自体が仁徳天皇崩御年を399年に設定しておきながら、その後の430年に応神天皇崩御するなど論外であり、支離滅裂である。


 日本書紀』の年代設定

 『日本書紀』は百済王の年代と合わせるため、わざわざ応神天皇の②の位置を120年戻して④の位置に移動させている。つじつま合わせが目的の年代設定としか思えない。

 これでは(実際の神功皇后摂政69年の翌年になり、いくら何でも胎中天皇が70歳で即位はないだろう。成人すればただちに即位するのが当然なのだから、神功摂政期間中の早い時期には誉田別命が即位したものと想定してよいと思う。


  『日本書紀』の年代の誤謬の一要因は神功皇后摂政単独69年にある。その後に応神天皇をつないでいるからだ。

 これでは、いくら120年戻しても矛盾が増幅されるだけで、絶対に正しい年代にはならない。120年戻すことが可能なのは神功皇后だけなのである。摂政69年までの期間に応神天皇仁徳天皇の一部が平行して入らなければ本当の年代とはいえない。その年代決定が難しいのである。難しいというより正確には決定不能なのだ。だから、321年から427年の間で、まとめて3代を考えるのがいちばん史実に近く楽な方法なのである。それでも、その間であえて在位の配分を考えるとしたら、あくまでも想像でしかないことを、前もって認識しておく必要があるだろう。


 誉田天皇の推定在位年試算

 誉田別命神功皇后摂政3年に3歳で皇太子になっている。実際は4歳かもしれないが、3歳と書かれている。そして、その年に武内宿禰と禊ぎのため越国に行って、気比大神と互いに名を入れ替えたとされる。

 その後、応神紀2年条には「仲姫を立てて皇后とされた。」とあるから、すでに即位年に結婚はしていたのだ。さらに13年条では髪長姫を大鷦鷯尊に与えている。これらの記事が正しければ、元年には少なくとも20歳にはなっていたと考えられる。もしくは、それ以上だろう。

 20歳としても応神元年は340年。それより遅くはあっても、早くはないだろうと思う。そこで、最も早い年代の340年即位の線で考えてみよう。


 それを起点に単純計算をすると、

427(仁徳崩年)-339(応神即位前年)-2(空位期間)=86(両天皇の全在位期間)

  両天皇の『日本書紀』による在位期間は応神41年、仁徳87年で、約1対2の比率になっている。そこで、

86÷3=28(余り2)  応神 339+28=367(年) 仁徳 369+28×2+2(余り分)=427(年)

応神天皇 340年~367年(在位28年、47歳)…空位2年…仁徳天皇 370年~427年(在位58年、年齢不詳、『古事記』は83歳)

 単純に数字を割り振ると、こんな感じになる。ただ、どこまでも計算上の目安であり、史実とは別物だろう。

 なので、史実に近い年代は、やはり神功皇后元年(321年)~仁徳天皇崩御(427年)として考えるのが、いちばんいいと自分は思う。


 考証後の年代  

 そこで、検証の結果、現在の結論として考えたのが次の年代である。

神功皇后 321辛巳から389己丑
応神天皇 340から367    (在位年は計算による目安で史実性はない)
空位2年)
仁徳天皇 370から427丁卯  (即位年は計算による目安で史実性はない)
………………………………………………………………………………………………………

履中天皇 428戌辰から433癸酉(在位6年)・・・『古事記崩御年432(壬申)
反正天皇 434甲戌から438戌寅(在位5年)・・・『古事記崩御年437(丁丑)
空位1年)
允恭天皇 440庚辰から453癸巳(在位14年)・・・『古事記崩御年454(甲午)
安康天皇 454甲午から456丙申(在位3年)・・・『古事記』記載なし
雄略天皇 457丁酉から479己未(在位23年)・・・『古事記崩御年489(己巳)
清寧天皇 480庚申から484甲子(在位5年)・・・『古事記』記載なし
顕宗天皇 485乙丑から487丁卯(在位3年)・・・『古事記』記載なし
仁賢天皇 488戊辰から498戊寅(在位11年)・・・『古事記』記載なし
武烈天皇 499己卯から506丙戌(在位8年)・・・『古事記』記載なし
継体天皇 507丁亥から531辛亥(在位25年)・・・『古事記崩御年527(丁未)


 上記年代の注意点

①  仁徳崩御年の427年は平均値のため二年程度は前後する可能性はある。その場合は、允恭天皇の年代を加減すればよい。

安康天皇の年代と『宋書』の「興」の年代がずれている件について。
 『宋書』の済が死んで世子興遣使貢献は「孝武帝紀」の「460年倭国遣使奉献」を指すのではないかと考えられる。「興」は安康天皇で間違いないと思うので、その興の奉献が460年なら、允恭天皇崩御年と雄略天皇の即位年を6年ほど下げる必要があるかもしれない。

 その場合はこうなる。

允恭天皇 440庚辰から453癸巳(在位14年)→440庚辰から459己亥(在位20年)
安康天皇 454甲午から456丙申(在位3年) →460庚子から462壬寅(在位3年)
雄略天皇 457丁酉から479己未(在位23年)→463癸卯から479己未(在位17年)

 その他の天皇は同じである。

 南朝の史料を照合するとその可能性がなくはないが、そうすると、記紀の干支や『日本書紀』の内容とは3代にわたって年代のずれが生じるので、そう簡単には変更できない。そこで、次のような考え方もあると思う。

 安康天皇は不慮の事態により3年で崩じたため、まだ遣使や爵位の授与がなされていなかった可能性がある。また、倭国王武の上表文に「高句麗が邪魔をしてなかなか行けない」旨の記述もあり、そのため実行できていなかったことを、遅ればせながら雄略天皇の初めに行ったのではないか。その後に雄略天皇も使者を送って奉献した。

 どちらが正しいかは、今後の検討課題だろう。


 年代の延長には基礎資料があったか?

 終わりに、本稿の冒頭で『日本書紀』の天皇の年代が延長されていると言ったが、ほかに『古事記』も天皇の年数を延長しているし、『先代旧事本紀』等を読んでも『日本書紀』と同内容であることから、実際には原史料においてすでに延長がなされていた可能性もある。いくら当時の優秀なブレーンが揃っていても、基礎資料なしで国史を編纂したりは絶対に出来ないのである。それは中国の史書を見ても分かる。

 初代神武天皇の即位年は讖緯説に従って推古天皇9年(601、辛酉)を起点とし、1260年溯ったという説がある。また『古事記』には掲載すべき天皇が残っているにもかかわらず推古天皇までしか記されていない。推古天皇28年(620)には聖徳太子蘇我馬子天皇記・国記・本記を作った。後年、蘇我蝦夷が自邸に火を着けたとき。船㕜󠄀恵尺(ふねのふびとえさか)が国記を救い出して天智天皇に渡した――との記述も認められることから、記紀の編纂時には何らかの基礎資料があったものと考えられる。
 その時から天皇の年代がすでに延長されていた可能性は否定できない。『日本書紀』だけが意図的に延長させたわけではないのかもしれず、あとからそれを読んだ『日本書紀』編纂者が卑弥呼の記事を書き添えたとも考えられるのである。