鄙乃里

地域から見た日本古代史

永隆院殿のシンデレラストーリー

 徳川御三家紀州藩6代藩主に徳川むねなお)がいます。この徳川直は以前は松平頼致(よりよし)といって伊予西條藩2代藩主でした。松平氏の伊予西條藩は寛文10年(1670)に紀州藩から2代藩主徳川光貞徳川家康の孫)の弟・松平頼純が藩主になって入部したのが始まりです。

 それまでの伊予西條藩主は一柳氏でしたが、三代で改易を命じられたため、そのあとに3万石で藩主に封じられたのです。しかし、頼純には紀州ですでに5万石が与えられていたため、伊予西條藩にはその差分の2万石を紀州藩から合力米として追加されていたという話です。

 伊予西條藩といっても藩主が紀州連枝なので、実際は紀州支藩のような感じだったようで、そのため紀州藩に適切な後継者がいない場合には、養子の形で紀州藩主になる西條藩主もいたのです。また、その逆もあり、松平頼淳(よりあつ)は紀州から予州へ移って伊予西條5代藩主を務めた後に、また紀州に呼び戻されて9代藩主徳川治貞になっています。 
 ただ6代宗直の場合は特別で、紀州家5代の徳川頼方が8代将軍徳川吉宗になったために、そのあとを継承したのでした。

 徳川宗直松平頼致)は生涯正室を持ちませんでした。ただ、側室が11人もいたそうで、そのうちの一人が永隆院(えいりゅういん)でした。


 伊豫西條藩は3万石の小藩ですが定府大名なので常時江戸詰で、江戸の上屋敷跡地は今の青山学院大学です。そのため藩主といっても、実際に伊予の領地を訪れたのは10人の藩主のうちでも半数ほどで、それも初代藩主以外は一度きりでした。その代わりに家臣が行き来しました。

 その中でも松平頼致(宗直)は一度ですが藩主としてお国入りし領内を巡察しています。その時、宇摩郡(うまぐん)の八日市で水を所望したところ、泉からわき出した冷水を柄杓に汲んで差し上げたのが永隆院でした。当時は13歳のお作という娘でしたが、礼儀正しく慎み深く、その所作が勝れていたので頼致の気に入り、陣屋へ召されたそうです。 地元の伝承では「八日市一の器量よし」と書かれていますが、『西條誌』には「御容色が勝れて美しかったというわけではないが…」と書かれているので、それなりの器量よしに加えて気品があり心配りが行き届いている等々…人柄について見初められたのだろうか? そのときのお作の気持ちはどうだったか分かりませんが、当時の一般常識としては「覚えめでたい」ということになるのでしょう。

 『西條誌』によると「お作の父は服部幸左衛門一則と云、一則の父を清太夫と云、清太夫の父を淡路と云」とあり、淡路は京極高次に仕えて千五百石を領していたが、雲州松江城主京極忠高の代に忠高の後継者がいなかったため京極家が断絶になり、清太夫も浪人になった。その子の服部幸左衛門一則(お作の父)は豊後杵築城主に仕えていたが、伊予国宇摩郡八日市にやってきて、そこで元禄15年(1702)に、お作が生まれたのだとあります。松平頼致はしばらくして江戸に帰ったため、お作も共に江戸に行き、その後、側室となったようです。


 正徳6年(1716)4月、伊予西條藩主を5年勤めた松平頼致は、紀州藩に移って6代藩主徳川宗直を名乗りました。そして享保5年(1720)2月にお作との間に直松が誕生します。この直松が紀州7代藩主徳川宗将(むねのぶ)になり、お作はお部屋さま(永隆院)になったという。側室だけでなく藩主の実母ということでさらに尊敬を深めたそうですが、自身はこれまでと変わることなく「家臣の下々まで気を配り、その人柄は愛された(『土居町50年のあゆみ・できごと』」ということです。


 『西條誌』には「御一生、産神一ノ宮を御信仰ありて、年々御代參を立させらる、」とあり、伊予の地を離れても古里八日市のことは終生忘れないで、常夜灯や寄付金の寄進なども積極的に行っていたようで、地元民からも敬愛されています。

 実家服部家の養子だった兄・服部幸左衛門一崇も、それにより中小姓に召し出され、宗直紀州相続後は紀州に引っ越し、さらには江戸に引っ越しして、大小姓頭として知行三百石を与えられたことが記されています。

 現在は四国中央市土居町津根の一宮神社境内に「永隆院殿生誕之地」の立派な石碑が建てられています。不思議な運命が重なった伊予のシンデレラストーリーといえるでしょう。