鄙乃里

地域から見た日本古代史

聖徳太子に関する四方山話的な諸考察(1)

 伊予の万葉歌にある「臣の木」は「樅の木」でだいじょうぶ? 


 万葉集』の山部赤人長歌には伊予の湯を詠んだものがありますが、そこに「臣の木」が登場します。「臣の木」は万葉集』や『伊豫国風土記逸文舒明天皇の大殿戸の木や鳥が登場するので、赤人の歌はその話を下敷きにしたものではないかという説もあるようです。確かにそうかもしれません。

 
 山部赤人の万葉歌(巻三 322)は次のようです。

  山部宿禰赤人、伊豫の温泉に至りて作る歌一首   并に短歌

皇神祖(すめろぎ)の   神の命の   敷います   國のことごと   湯はしも   多
(さわ)にあれども 島山の   宜しき國と   こごしかも   伊豫の高嶺の   射狭庭(いさにわ)の   岡に立たして 歌思ひ   辭(こと)思はしし   み湯の上の樹群(こむら)を見れば   臣(おみ)の木も   生い繼ぎにけり 鳴く鳥の聲(こえ)も變らず   遠き代に 神さびゆかむ   行幸處(いでましどころ)
 
                       反歌
  ももしきの大宮人の飽田津に船乗しけむ年の知らなく
 
          岩波書店   日本古典文学大系萬葉集1』)


  また舒明天皇と皇后の「伊予の湯」に関する記事は以下のとおりです。

時に、大殿戸に椹と臣の木とあり。その木に鵤と比米鳥と集まり止まりき。天皇、この鳥のために、枝に穂どもを繋けて養ひたまふなり。

          岩波書店   日本古典文学大系風土記

 ただし、『万葉集』の大殿戸には樹木名は書かれておらず、山部赤人は年代的にみると『万葉集』の記事は読んでいないと思われるので、そうだとしたら赤人の「臣の木」の知識は、それとは別の情報源によるものでしょう。

 ところで、この「臣の木」については、ほとんどの説が「樅の木」の古名としていて、広辞苑(第六版)にも採用されています。その他の異論は聞いたことがありません。

 しかし、その理由を探ってみると、実は何の根拠もなさそうです。強いていえば、読みが似ているからでしょうか。
 それなのに、なぜ樅の木の古名だと言われているのか? 筆者が初めてこの樹木名に出会ったときは「臣の木って、何の木だろう?」と思っただけで、それが樅の木だというのは『伊豫国風土記逸文の頭注や辞書を引いてから初めて知ったのですが、「えっ、樅の木は、古代には臣の木と呼ばれていた? それが訛った
?」というのが率直な感想でした。

 それからいろいろ調べてみたのですが、どれも「臣の木は樅の木の古名」というだけで、転化の理由や経緯などは一切記されていないのです。名前が似ているから誰かがそう言いだして、みんなが右へ倣っただけなのか。「臣の木って、臣下(しんか)の木の意味だから。舒明天皇が樅の木に稲穂を架けたので臣下の木にされてしまったのかな?」とか、何となく得心がいかなかったのです。


 今ではこの「臣の木」は「楢の木」のことだったんだなと納得しています。これは筆者が考えたのではなく『伊豫の高嶺』の著者である真鍋充親氏が本書にそのような話を書かれていたのです。つまり「臣」とは聖徳太子の御侍(とも)のひとり「葛城臣烏那羅(かつらぎのおみおなら)」のことだというのです。石湯(いわゆ)の岡の西の方に、古代に立派な楢の木が立っていたようで、現在の西条市楢木の地名の発祥になっています。それで楢の木が「臣の木」と呼ばれるようになったというような内容でした。

 筆者が察するに、その楢の木は「コナラ(小楢)」だったようで、「コナラ」は「オナラ」とも読めるので、太子が「烏那羅よ、ご覧。おまえの木だ。臣の木だよ」と言ったのではないか、と思うのです。それ以来、関係者の間や地元では楢の木を「臣の木」と呼ぶ習慣になっていたのではないか。それを山部赤人が万葉歌にそのまま採用しているのではないだろうか…。そうであるなら「臣の木」は聖徳太子の「伊予の湯」来訪に関わる仮称であり、舒明天皇のときに始まったものではないことになります。

 次の「鳴く鳥の聲(こえ)も變らず」にしても、聖徳太子の詩文には「臨朝啼鳥而戯吐下。何曉亂音之聒耳。」とあるのに対して、『伊豫国風土記』の舒明天皇の記事や万葉集の『類聚歌林(るいじゅかりん)』のほうは鳥の鳴き声までは記されていません。

 また、普通に考えても、樅の木に稲穂を架けたりするのはおかしいように思われませんか。舒明天皇の来訪は冬なので、やはり楢の木のような鳥が集まる落葉樹に稲穂を架けて小鳥を養ったのでしょう。シメもイカルもどんぐりが好きな鳥です。

 したがって、山部赤人は主として聖徳太子の来訪を念頭に置いて「御湯の上の木叢を見れば臣の木も生い継ぎにけり」 と楢の木を詠んでいるわけで、石湯の場所には昔は椿もあったかもしれませんが、その背後は山崖なので、そこの木叢にも楢の木が生えていたことは十分考えられます。

 反歌のほうは斉明天皇の征西時のことで問題ありません。


 この説が絶対だと言うつもりはありませんが、この場合の楢の木説は現地の状況とよく適合しているのです。 それに対して、樅の木説にはどんな根拠があるのでしょうか? 植物学者が樅の木と断言しているのでしょうか? 根拠があるなら根拠を書き、根拠がないなら、せめて「不明」と書いておくべきで、よく調べ直す必要があるでしょう。

 

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