鄙乃里

地域から見た日本古代史

聖徳太子に関する四方山話的な諸考察(2)

  聖徳太子の「天寿国」はどんな国?


 
聖徳太子の妃・橘大郎女(たちばなのおおいらつめ)推古天皇に願って采女や工人らに作らせた「天寿国曼荼羅繡帳」には、太子らが現在いる場所として「天寿国」という言葉が出てきます。また『伊豫国風土記逸文聖徳太子の碑文中にも「寿国」の言葉が出てきますが、この「天寿国」「寿国」とは、どのような国を表現しているのでしょうか?

 

 たとえば、『伊豫国風土記』詩文の原文はこうなっています。

惟夫日月照於上而不私。神井出於下無不給。萬所以機妙應。百姓所以潜扇。若乃照給無偏私。何異于壽国。隨華臺而開合。沐神井而◆1 疹。◆2 升于落花池而化溺。窺望山岳之■■。反冀子平之能往。椿樹相◇而穹窿。實相五百之張盖。臨朝啼鳥而戯吐下。何曉亂音之聒耳。丹花卷葉映照。王果彌葩以垂井。經過其下可優遊。豈悟浩灌霄庭意與。才拙實慚七歩。後定君子幸無蚩咲也。

 ※ ◆■は依存文字 (◆1 やまいだれ+ りょう(寥の下側のみ)◆2 言偏に巨   ■1 山偏に嚴 ■2 山偏に咢   ◇ 广に陰))


 このままではたぶん読む気が起きないと思いますので、筆者なりの解釈でよければ訳文を添えておきます。

 
思うに、日や月は上空にあって惜しみなく照らし、神の井は地下から湧き出てあらゆるものに恵みを与えている。すべてはこの環境に応じてうまく運び、民らは安らかに暮らしている。もしこのように、照らし給えて偏(かたよ)ることがなければ、[恵みを受けた花はそれぞれの]うてなに従って自然に開き合い、[その様子は]寿国(じゅこく)とくらべても何ら異なるところがない。[里人が]この神の井に沐(もく)して疹(やまい)を癒すのは、[萎(しぼ)んで]弱った花が恵みの池に落ちて、再び生気を取り戻すようなものである。樹木の間から山崖を望み、自分を省みては、張子平(ちょうしへい)のように登っていけたらなあと思う。椿樹(つばき)は互いに重なり合って空の形になり、まるで[頭上に]無数の絹傘(きぬがさ)を張っているかと思うほどである。朝になると小鳥がやって来て戯れ鳴くが、そのにぎやかに囀りまわる声も、決してうるさくは感じない。紅い花は葉を巻いて日に照り映え、玉のような果実は花びらを覆って井に垂れている。その樹下を通りすぎながら、[自然を愛で、また詩文を考え]心ゆったりと遊びたいものだ。しかし、詩才には乏しくて、あの七歩の間にも詩が作れるという魏の曹植(そうしょく)のまねはとてもできないことを、まことに気恥ずかしく残念に感じている。[それだから]どうしてこの広大な自然の心など知ることができようか。後世に生まれる心賢い人よ、どうか軽くみて笑わないでほしい。


 原文が詩文なので、
部分的には異なる解釈をされる方もいるでしょうから、訳文が気に入らなければ、本文のほうをご覧下さい。  

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   「寿国」については、この詩文中にだいたいのヒントが示されているようです。

 寿国の「寿」は「ことほぐ」「めでたい」という意味がありますが、「年齢」の意味もあります。とくに「長寿」を表す言葉です。「不老長寿」は道教(神仙思想)によく登場する概念で、その最たるものが「不老不死」であり、「寿国」とは永遠の生命を得るか、もしくは、その境地に至った神仙たちが住んでいる別世界のことを言います。その世界は、蓬莱山のような高い山巓や、東海の彼方にある常世の国と考えられていて、詩文中の「張子平」の話などには、そのような高い山岳に対する憧れが感じ取れます。

 そのため、一つには、この「寿国」という熟語には道教でいう理想郷の意味が含まれているように思います。ただし、「天」とは関係がないようです。



 次に蓮の花が開いたり、花が池に落ちて化生したりするのは仏教の極楽浄土の有様を表現しています。ですから、寿国はまた「極楽浄土」を表す言葉とも受け取れます。この詩文に仏教の世界観が詠み込まれていることは確かでしょう。ただ「極楽浄土」は「此岸」に対する「彼岸」としての受け止め方はできますが、これが即ち「天」だとはいえないかもしれません。


 そこで、この「天」を表すためには、キリスト教の「天国」を付け加える必要があるのではないでしょうか。「天寿国」の「寿」を除けば、正に「天国」です。

 太子は覚哿(かくか)博士から「儒教」の経典を学び、高句麗の恵慈法師から「仏教」を学びました。道教も誰かから学んだのでしょう。しかし、そのほかにも、太子の側らには強力な後援者でありブレーンとしての秦河勝が存在したわけで、この河勝からもキリスト教に関する話を聞いていたはずです。そこに「天国」という発想のルーツが窺えます。

 聖徳太子は「上宮皇子(うえのみやのみこ)」とか「豊聡耳皇子(とよとみみのみこ)」とも呼ばれますが、最初の名は「厩戸皇子(うまやどのみこ)」でした。ベツレヘムの厩で生まれたイエスを再現している名です。

 『日本書紀』には「片岡の飢人」の話もあります。太子が食べ物や自分の衣を与えたが、次に行ってみると、葬られた墓には衣だけがたたんであって誰もいなかった話で、太子はその衣を自分で着たとあります。イエス磔刑後にマグダラのマリアたちが墓を見に行ってみると、墓はもぬけの殻で衣だけがあった『福音書』の話と同じです。おそらく「片岡の飢人」はイエスキリストだったのでしょう。その衣を着たということは太子がイエスキリストの再来のような存在であることを暗示する譬え話のようにも思えます。

 これは伊予来訪よりは後の話かもしれませんが、「厩戸皇子」は幼名らしいので、太子が早くから原始キリスト教の影響を受けていたことは間違いありません。そのためもあってか、秦河勝弥勒菩薩像を託しています。太秦広隆寺の仏像です。

 斑鳩中宮寺にも仏像がありますね。ほんとうは如意輪観音像ですが、以前は弥勒菩薩像ともされていました。

 したがって、太子の「天寿国」の考えの中には、これら諸思想の考え方や理想世界の映像が一体になって包摂されている。それが太子の考える「天寿国」だったのではないかと想像できます。橘大郎女らも「天寿国」の話については太子からよく聞かされていたのでしょう。

 天からあまねく降り注ぐ日月の光や地下から湧き出る霊妙な湯泉が、民らに惜しみなくその恩恵を与えているように、政治においても平等に隔てることなく恵みが与えられたなら、それが地上世界であっても「寿国」と何ら変わるところがないのだ。そんな感銘を与えてくれた伊予の湯への賛辞の思いが、この詩文には込められているような気がします。

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 太子の「天寿国」は道教・仏教・キリスト教の理念を混合した世界観ではありますが、一方で詩文の「寿国」は、若い頃の太子が思い描き、志していた国造りの理想の姿でもあったのかもしれません。現実の政治による国造りは孔子の教えとも共通するもので、この詩文を読むと、そんな国造りを求めていた太子の若い日の情熱伝わってくるような気がするのです。