鄙乃里

地域から見た日本古代史

聖徳太子に関する四方山話的な諸考察(3)

 『隋書倭国伝の「秦王国」ってどこの話?


 『隋書』
倭国には、607年に遣隋使の小野妹子倭国から隋にやって来た翌年に、今度は隋の使節・裴世清一行が小野妹子に同行して倭国を訪れたことが記されています。

 一行は百済国に渡ってから済州島を南に望み、壱岐を通って筑紫に到着していますが、その後は東に向かって秦王国に着いたとあります。

また竹斯国に行き、また東へ行って秦王国に着く。そこの人は華夏と同じようである。そのため、夷州とするも、疑わしいところを明らかにすることは出来なかった。そこから、さらに十余国を経て海岸に到達した。竹斯国から東の国はすべて倭に従属している。 (『隋書』倭国伝 )

 そして、この秦王国の場所については(確かなことは不明ながら山口県とか兵庫県あたりだろうかとの説もあるようです。東と書いてあるので陸路を行けば、そのような解釈がありうるかもしれません。


 しかし、この点に関していえば、事実ははっきりしています。『隋書』には秦王国の記事に続いて「十余国を経て海岸に達す」と書かれています。すると、山口が仮に穴門(長門)だとしても、周防、安芸、吉備、播磨、摂津で、次は難波津ですから、吉備を備後・備中・備前・美作に別けても、8ヶ国ほどです。岡山・兵庫あたりだとあとわずかしかありません。それに遣唐使もみな船で往き
来しているのに、日数を要するだけで疲れる陸行を誰が好んで選ぶでしょうか。


 この筑紫の東にある秦王国とは、隣国の豊前から豊後のことでしょう。豊前・豊後は昔は豊の国と言っていたようですが、田川郡も小倉も豊前です。八幡製鐵八幡村とか宇佐八幡宮とか「ハタ」に因む名称があり、福岡県・大分県あたりは
現在も秦性の人が多いようです。この場合の秦王国は主として豊前の集落と思われますが、そこから国東方面に出て、姫島経路の船に乗ったのではないかとも推測されます。そのため、最初に阿蘇山の話が出てくるのかも?しれません。

 その航路に乗ると山陽道の国々に加えて、少なくとも伊予・讃岐・淡路、それに茅渟国(和泉国)も加わるので、十余ヶ国を経て難波津に到達で矛盾はないでしょう。
 『日本書紀』によると飾り船で江口(えぐち)に出迎えています。飾り船で出迎えたのは裴世清一行が船で瀬戸内海をやってきたからで、「筑紫から東はみな倭に附庸す」は、すでに難波津に到着したことを物語っているのです。筑紫から案内したのは、難波吉士雄成(なにわのきしおなり)でした。


 使節一行は難波津の客館でかなり長く留まりました。使節を迎えるための準備が都のほうでまだ整っていなかったからでしょう。まさか返礼の使節がやって来るとは想像していなかったのかもしれませんね。使節一行が筑紫に到着してからその報告を受けたとすれば、使節を泊めるための客館を
難波津に新設するだけでも精一杯だったのではないでしょうか。

 『隋書』倭国倭王は「多利思北()孤」と書かれているので、会見のとき裴世清に会ったのは聖徳太子だったのではないかと考える人もいるようですが、『隋書』の607年の倭王は600年の文帝の記事に合わせているだけで、推古天皇であっても別に問題はないようです。会見はすべて人を介して行われており、裴世清が推古天皇と顔を合わせることはありません。小野妹子でさえ「女帝」だとは一言も相手に告げていないのです。倭国が隋に対して従来の冊封関係ではなく、対等な友好関係を求めていたからでしょう。


 『隋書』
倭国には使節らが秦王国の人を見たときに「華夏に同じ」 と書かれているので(支配層まで同じかどうかは不明ながら)その集落の大方の民は倭人ではなく、かつては華夏(中華)にいた人たちだったということが分かります。どんなルートの秦一族かは別にしても、要するに昔の秦国からの移民の子孫なんでしょう。秦始皇帝は「秦王」と称していたらしいので、弓月の君(融通王)らが始皇帝の子孫だという話も、あながち作り話とは言えないのかもしれませんね。



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